2013/11/30

企業の社会的責任と自己循環論法(1)

確固とした土台(=理由)なく、
CSRは進められているのではないか
日本において(世界でもですが)、様々な企業が様々な形で企業の社会的責任(CSR)を実践しようとしていますが、その格闘の中で、企業が「CSRを実行する理由」を探しているという現状を感じています。

CSVやSustainabilityやインクルーシブビジネスやソーシャルビジネスやCSRマーケティングなど、様々な「CSR周縁概念」とも言える概念が出てくる中で、CSR本来の意味や目的が見えづらくなっている状況ですが、私自身のCSRの定義は以前の投稿で述べたとおり、自社の事業運営の各プロセスや結果において、あらゆるステークホルダーに与えるマイナスの影響をゼロに近づけていく責任であり、その上でプラスの影響をより大きくしていく責任、だと考えています。

そしてこれはあくまで社会が企業に求めているものであり、その責任を全うしていくインセンティブは企業の内側には本来無い、というのが私の考えることです。もちろん、企業側が頭をひねって、企業の利益にもなる社会的責任の果たし方を見つけることが出来た部分については、企業の内側からインセンティブが発生することになると思いますし、そういうものもたくさんあると思います。しかしそれらも定量的に成果を把握していくことは難しく、またやはり企業にとっては(少なくとも短期的、ないしは企業として考えうる現実的な期間は)コストという扱いにならざるを得ないものがあることも事実だろうと思います。

企業の内側にはそもそもインセンティブが無く、一方で社会に具体的な形で何かを求められているようには見えない場合、企業に「CSRを実行する理由が無い」のではないかと私は考えます。確かに、グローバルで見ると様々な企業がCSRへの取り組みをブランドの向上につなげており、そういった事例が無いわけではありませんが、全ての企業がそれを達成できるかというと疑問が残ります。そしてこの「理由が無い」という状況を正面から見据えて出発しない限り、企業の社会的責任が促進される効果的な方法は達成されないだろうと思うのです。

しかし、実際にはそのような中でも徐々にCSRという言葉が広がっていき、多くの企業が、良く分からないが取りあえず巷で言われているようなことをやってみようか、という形で取り組んでいるのが今の日本のCSRだと思います。つまり、理由は無いけどやっている。

この理由が無いけど何かが行われているという状況は、そもそもありえるのでしょうか?理由が無い中で行われているという状況は、安定的でしょうか、不安定的でしょうか。そして理由がない状況の中で、現状以上にCSRが深まっていく可能性はあるのでしょうか?これらの点について、もう少し考えを深めたいと思います。


2013/10/27

CSRを促進する社会の仕組み(2)

マスコミ業界によるBPOの設置は
業界全体でCSRを促進していく
取り組みと言える
放送倫理・番組向上機構(BPO)という組織がありますが、この組織も様々な業界に属する企業がCSRに取り組んでいくことを促進するヒントを提供しているように思います。

BPOのウェブサイト(http://www.bpo.gr.jp/)によると、BPOは以下のような組織です:

放送における言論・表現の自由を確保しつつ、視聴者の基本的人権を擁護するため、放送への苦情や放送倫理の問題に対応する、非営利、非政府の機関です。主に、視聴者などから問題があると指摘された番組・放送を検証して、放送界全体、あるいは特定の局に意見や見解を伝え、放送界の自律と放送の質の向上を促します。

BPOはNHKと民放連によって設置された第三者機関です。

※いずれもhttp://www.bpo.gr.jp/?page_id=912より

この機関について注目したい点は、この機関が「民間組織」によって「恒常的に」設置されたものであるということ、そして前回の記事と重なりますが、民間組織がステークホルダーとの対話の場を設定しようとするものであり、また業界全体でlevel playing fieldを構築しうる取り組みであるということです。


「民間組織」によって「恒常的に」設置された機関としてのBPO

前回のブラインドの安全対策に関する東京都とのイニシアチブと、BPOの違いは二点あります。一つはBPOが民間組織が自主的に設置したものであるということ、もう一つはBPO
が一時的な取り組みではなく、恒常的な組織として設置されたものであるということです。

後にもう少し詳しく述べますが、放送業界はBPOによってステークホルダーたる視聴者の意見を事業活動に取り入れ、自らの事業活動を改善していくための窓口としてこの機関を活用しようとしています。このブログで何度も述べている通り、民間組織が自らステークホルダーの意見を聞く場を設置することこそCSRの前提とも言えることであり、その作業なくしてCSRは成り立ちません。BPOを恒常的な組織として、ステークホルダーの意見が常に放送業界に伝わる仕組みとしていることは、まさしく放送業界によるCSRであり、他の業界が模範とすべき事例と言えるのではないかと考えています。


ステークホルダーとの対話の場としてのBPO

上述の通り、BPOは放送業界がステークホルダーたる視聴者の意見をBPOに協力するマスコミ各社に届けていく役割を担っています。BPOの飽戸理事長は、ウェブサイトでBPOの活動について以下の通り述べています

BPOは、視聴者の意見や苦情を真摯に聞き、独立した第三者の立場から放送倫理上の問題に対して的確に判断することが、活動基本として明確に決められています。

マスコミ各社は、大雑把に言えば番組を作って収益をあげるわけですが、その番組作りのプロセスが「適切」なものでなければ、時に他者の基本的人権を侵害するなどの問題が発生することがあります。例えば大きな殺人事件の被害者家族に対する執拗な取材によって精神的苦痛を与えることや、不確定な情報をベースにしたデマの流布、事実をゆがめる過剰演出などが場合によっては「不適切」な番組作りとなりえます。これらの問題をステークホルダーの意見から抽出し、放送の内容や番組作りに取り入れていくことが、マスコミ各社がBPOを通して行おうとしていることだと考えられます。BPOの規約などを熟読していないため詳細をしっかりと把握している訳ではありませんが、この理解が正しければ、やはりBPOはマスコミ各社による最も重要なCSR活動の一つだと言うことができると思います。一点追加することがあるとすれば、ステークホルダーを視聴者に限定せず、放送業界の活動に関わる全てのステークホルダーを取り込みうるものとしていくことができれば理想ではないかと思います。


業界全体でlevel playing fieldを構築しうる取り組みとしてのBPO

最後に注目したいのは、やはりこの機関が放送業界のlevel playing fieldを作り得るという点です。level playing fieldについてもこのブログの中で何度か触れていますが、やはり競争条件を整え、同じ業界内で競争する全組織が等しくコストを負担する状況を作っていくことは、一つ一つの企業がCSRをしっかりと果たしていく上で非常に重要です。マスコミ各社がBPOの提言を尊重し、各社が等しくそれを事業活動の中に取り入れていくことが出来るならば、BPOは放送業界のCSR促進における強力な仕組みだということができると思います。例えば先の殺人事件被害者家族の例えで言えば、殺人事件被害者に対する取材は各社個別では行わず、必ず被害者家族の同意を得た上で公式の場を設置し、そこで各社同時に行うこととする、などの条件が整えられれば、スクープを狙った過剰な取材競争が抑えられるなどの効果があるかもしれません。(放送業界の実情については全くの無知のため、イメージだけで書いておりますが)


あとは放送業界のBPOによって提言されたことを事業活動に取り入れていく制度やガバナンスを各社が持っているかどうかという点ですが、この点は恐らくまだ課題として残っているのではないかと思います。そういうインセンティブがあるかどうかは議論しなければなりませんが、いずれにしてもここを深めていければ、放送業界のCSRはまた一歩他の業界をリードしていくことになるのではないかと思います。

他の業界の業界団体もBPOのような機関を設置して、ステークホルダーの意見を各社で共有し、業界全体で事業活動を改善していく仕組みを持つことができれば、CSRが各業界で促進されていくことに繋がるのではないかと考える次第です。

2013/10/22

CSRを促進する社会の仕組み(1)

ネット上をうろうろしていたところ、興味深い記事がありました。

「ブラインド」で死亡事故 安全対策提言へ
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131022/t10015466781000.html

この記事で示されている東京都のイニシアチブは、CSRを促進する社会の基本的なモデルといえるのではないかと思います。記事を読む限り、今回の対応の以下の点に着目することが非常に重要ではないかと思います。

社会としてCSRを促進する
仕組みを作る

メーカーや消費者団体などが意見を交わしている点
企業側が一方的な考えを述べるのでもなく、消費者側が一方的に企業を非難するのでもない、企業とステークホルダーが対話の場を設け、何が問題でどのような対策をとれるのか協議を行っている点が非常に重要だと思います。


医師や警察と連携して情報を共有する仕組みを作ろうとしている点
企業だけがCSRに取り組むのではその成果に限界があり、様々なステークホルダーや関係者が協働していく必要があります。今回のケースで医師や警察と情報共有を行っていくことは、現状の客観的で正確な把握や、より効果的な解決策の構築につながると思います。


全国統一の基準づくりも含めて検討している点
以前租税回避を巡る議論について書いた記事で述べたとおり、Level playing field(=公平な競争条件)の構築がCSRを促進する上で非常に重要になります。全国統一の基準作りを含めて検討しているとういことは、全国のメーカーがその基準に準拠したものづくりをするようにするということであり、正にLevel playing field構築を目指していることに他なりません。その後は輸入製品に対する規制なども検討されていくことになるのではないかと思います。


この3点をそれぞれ一般化すれば、ステークホルダーとの対話の場の設定関係プレイヤーを巻き込んだ社会全体での取り組みLevel playing fieldの構築の3点だと言えます。この3点が積極的に実行されるような仕組みづくりが、CSRを促進する社会を作っていく上で不可欠ではないかと考える次第です。

2013/09/08

社会的責任に関する報告書(3) マテリアリティに関する課題

前回の投稿で述べたとおり、会計上のマテリアリティIRとGRIのマテリアリティ、この両方のマテリアリティを認識していくことが今後のCSR報告書に求められています。

1つのコインの表と裏

この二つのマテリアリティ(会計上のそれと、IR/GRIのそれ)は必ずしも全く異なるものではなく、むしろ実は同じコインの表と裏に当たるものもあると思います。つまり、IRとGRIのマテリアリティにあたるものを改善していかなかった結果、財務パフォーマンスも悪化させることにつながるケースや、財務パフォーマンスを考慮して取り組んだ結果、他のステークホルダーの利益にもつながるケースが多いのではないかということです。


会計上のマテリアリティとIR/GRIのマテリアリティの関係には、図の単純なマトリックスで提示される4つのパターンが考えられます。

1. 会計上のマテリアリティであり、IR/GRIのマテリアリティでもあるもの
この領域は、これまで会計の観点からしか説明されて来なかったものであり、今後はサステナビリティの観点からもその重要性が説明されていく必要がある領域です。

2. 会計上のマテリアリティではないが、IR/GRIのマテリアリティであるもの
この領域は、これまで全く報告されて来なかったものです。投資家にとって重要な情報ではない可能性がありますが、ステークホルダーや前回投稿にも記載した広義のvalue creationに何らかの影響を与えうるものがこの領域に当たります。

3. 会計上のマテリアリティだが、IR/GRIのマテリアリティではないもの
この領域はこれまでの会計報告にて既に記載されてきたものであり、特に新しい対応は必要になりません。

4. 会計上のマテリアリティではなく、IR/GRIのマテリアリティでもないもの
この領域は重要性に欠けるため、報告する必要がありません。



やはり課題となるのは上記の1と2、特に会計上は認識されなくともIR/GRIにおいては認識される必要のある2の領域のマテリアリティです。この領域は基本的には投資家が関心を示さない領域であり、投資家以外のステークホルダーのための報告と言われても企業側としては不明瞭であり、企業活動の状況を精査して、精緻な情報を開示していくインセンティブが働きにくいと考えられます。ではどうすれば2の領域について企業が情報開示を積極的に行う状況を作れるでしょうか。


企業側が行うべきことは、2の領域について、本当は1の領域にカテゴライズされるべきものが含まれていないかを吟味すること。上述の通り、会計上のマテリアリティとIR/GRIのマテリアリティは同じコインの裏表であることも多く、会計上のマテリアリティかどうか一目には分かりにくくとも、例えば長期的に捉えた場合にそうなっている可能性があります。

そして社会の側が行うべきことは、読み手がいるということを明確にしていくこと。情報開示の内容について評価を行ったり、ステークホルダーの代表者としてのNGOなどが積極的に企業の報告書の内容を確認していくことで、2の領域についてもしっかりと情報開示を行う必要があるということを企業に示すことです。そういった形でステークホルダーが意思表示をしていくこと自体も企業側のインセンティブとなりますが、それと同時にそれらの意思表示がレピュテーションリスクなどと結びつき、結果的に2の領域を1の領域に押し上げていく可能性もあります。


こういった報告書のあり方を見ても、CSRは企業だけの努力ではなく、企業と社会の双方がある意味で恊働していくことで促進されていくものであることが感じられます。この点を考慮せずに企業の自助努力だけにCSRを任せていくのでは、真に持続可能な発展に資する企業活動にはなかなか到達しないのではないかと思う次第です。


2013/08/28

社会的責任に関する報告書(2) マテリアリティの重要性

社会的責任投資を行ううえで、企業側からの非財務情報の開示が不可欠であることは前回の記事で述べた通りです。しかし、これまで企業から発行されてきたCSRレポートなどが本当に投資判断を行ううえで有用な情報となっていたかというと、疑問を挟む余地が大きいように思います。その大きな理由の一つが、「マテリアリティが認識されていない」というものです。

会計上のマテリアリティ

「マテリアリティ(Materiality)」とは、本来会計上の概念で、「財務に重要な影響を及ぼす要因」のことを指します。この「マテリアリティ」の考え方が、CSR報告においても重要視されつつあります。

重要な情報=マテリアリティ
をしっかりと見極める
従来のCSRレポートの多くは、企業のCSR活動についてある程度網羅的に説明されてはいるものの、マーケティングの色が強く、また紹介されている活動の多くは本業と関係の無いか、本業の一部分だけを切り取ったものに終始していたのではないかと思います。しかし、これでは投資判断を行っていくうえで何が重要な情報なのかがはっきりしていない、すなわちマテリアリティが認識されていないため、投資家が使うには不都合なレポートになっているというのが現状です。

その意味で、企業のCSRへの取り組みが、どのような形で財務パフォーマンスに影響を及ぼすのかを明確にしていくことは、社会的責任投資が拡大していく上では一つの重要なポイントとなると考えられます。


一方で、CSRはあくまでステークホルダーの便益を考慮して経営のあり方を改善していくことであり、財務に重要な影響を及ぼす要因だけをCSR報告書に記載するのでは投資家以外のステークホルダーにとっての意味がなくなります。つまりCSR報告書においては、従来の財務報告書におけるマテリアリティよりも大きな意味でのマテリアリティを認識することが求められることになります。

IIRCとGRIではマテリアリティにそれぞれ独自の定義を与えた上で、サステナビリティレポートにおけるマテリアリティの重要性を指摘しています。

IRのマテリアリティ

IRの定義するマテリアリティは以下のとおりです:

"For the purposes of <IR>, a matter is material if it is of such relevance and importance that it could substantively influence the assessments of providers of financial capital with regard to the organization’s ability to create value over the short, medium and long term."

前回の記事でも紹介したとおり、IRの言う"Value"とは、企業価値などの狭い意味でのvalueではなく、"outputs and outcomes that, over the short, medium and long term, create or destroy value for the organization, its stakeholders, society and the environment"つまり、株主を含むステークホルダー、社会、環境にとっての幅広い価値を意味しています。この非常に広い意味での価値創造につながるものをマテリアリティとして報告する必要がある、逆に言えばそれ以外の余計なことは報告するべきではないとIRは指摘しています。

GRIのマテリアリティ

GRIの定義するマテリアリティは以下のように説明されています:

"Materiality for sustainability reporting is not limited only to those sustainability topics that have a significant financial impact on the organization. Determining materiality for a sustainability report also includes considering economic, environmental, and social impacts that cross a threshold in affecting the ability to meet the needs of the present without compromising the needs of future generations.(中略)The threshold for defining material topics to report should be set to identify those opportunities and risks which are most important to stakeholders, the economy, environment, and society, or the reporting organization, and therefore merit particular focus in a sustainability report."

IRでは価値という言葉を使っているのに対し、GRIは必ずしも価値という言葉を使っていませんが、経済的なインパクトに限らず、幅広いステークホルダーへのインパクト全般について提示することが必要であると述べている点ではIRもGRIも共通していると言うことが出来ます。


会計上のマテリアリティIRとGRIのマテリアリティ、この両方のマテリアリティを認識していくことが今後のCSR報告書に求められています。そしてこれらを考慮した報告書を作成する上では、企業は結局のところ行動も変えていかなければならず、GRIやIRがCSR報告書のスタンダード作りに腐心している背景には、それらのスタンダードが最終的には企業行動を責任あるものに変えていくと考えられていることがあります。


今回CSR報告書におけるマテリアリティの重要性について考えましたが、それが今後浸透し、実践されていく上でどのような課題があるのか、次回の投稿で考えてみたいと思います。


2013/08/02

社会的責任に関する報告書(1) IIRCとGRI

どのような情報開示が
求められているのか
現在私は社会的責任投資の投資家向け調査を行う企業で働いておりますが、社会的責任投資が発展していく上で重要なポイントとなるのが、企業の情報開示です。

社会的責任投資は財務情報に加えて非財務情報の分析も踏まえて投資の意思決定を行うため、企業活動に関する幅広い情報の開示が行われて初めて可能になります。この情報開示のグローバルスタンダード作りを試みている非営利組織が2つあります。International Integrated Reporting Council(IIRC)とGlobal Reporting Initiative(GRI)です。

両者が何を目指しているのかを再確認し、今後の企業の情報開示に何が求められるのかを考察したいと思います。


IIRCが目指しているもの

IIRCはIntegrated Report(統合レポート)のフレームワーク作成を目的とした組織です。これまでのCSR報告書は財務会計報告書とは全く別に作られ、2つの報告書の関連性はほとんどありませんでしたが、IIRCはこの2つの報告書を文字通り統合し、相互の関連性が明確となるようなレポートのフレームワーク(=International IR Framework)を作ろうとしています。IR Frameworkには統合レポートの目的が以下の通り書かれています:

"<IRaims to:
Catalyse a more cohesive and efficient approach to corporate reporting that communicates the full range of factors that materially affect the ability of an organization to create value over time, and draws together other reporting strands
Inform the allocation of financial capital that supports value creation over the short, medium and long term
Enhance accountability and stewardship with respect to the broad base of capitals (financial, manufactured, intellectual, human, social and relationship, and natural) and promote understanding of the interdependencies between them
Support integrated thinking, decision-making and actions that focus on the creation of value over the short, medium and long term."

ざっくりと訳すと、IRの目的として以下の4点が挙げられています:
  • 組織の価値創造能力に重要な影響を与える幅広い要素を伝える企業報告の、よりまとまりのあり効率的なアプローチを促進させる。
  • 短中長期の価値創造をサポートする金融資本の配分に関する情報を提供する。
  • 資本の広義の概念(金融資本、製造資本、知的資本、人的資本、社会及び関係資本、自然資本)を尊重した説明責任と受託責任を強化し、それぞれの資本の相互の関連性への理解を促進する。
  • 短中長期における価値の創造に焦点を当てた統合的な思考・意思決定・行動をサポートする。
広義の資本の概念も面白いですが、より重要なポイントは価値創造に焦点を当てている点です。IIRCのIR frameworkは、様々な要素(主には上述の各資本)がどのように関連し合って価値の創造(=Value creation)に繋がっているかを示すためのフレームワークだと言えます。問題は何をもって価値とするかです。IIRCはIR Frameworkにおける「価値(Value)」を以下の通り説明しています:

"Value is created through an organization’s business model, which takes inputs from the capitals and transforms them through business activities and interactions to produce outputs and outcomes that, over the short, medium and long term, create or destroy value for the organization, its stakeholders, society and the environment."

価値を経済的な価値や金融的な意味での価値に限定せず、幅広くステークホルダー、社会、環境にとっての価値として捉えていることが分かります。また短中長期の全てにわたっての価値であることも強調されています。


GRIが目指しているもの

GRIはサスティナビリティ報告書作成のためのガイドラインであるSustainability Reporting Guidelinesを作成しており、今年その第4版(G4)が発表されました。G4の目的は以下のように書かれています:

"The aim of G4, the fourth such update, is simple: to help reporters prepare sustainability reports that matter, contain valuable information about the organization’s most critical sustainability-related issues, and make such sustainability reporting standard practice."

こちらもざっくりと訳せば、G4の目的は以下の三つということだと思います
  1. 報告者が意味のあるsustainability reportを作成することを助ける
  2. 組織のサスティナビリティに関連する論点の中で最も重要なものが情報としてreportに含まれるようにする
  3. Sustainability reportの作成が普通の習慣になるようにする
尚、GRIが主張するサスティナビリティは、ウェブサイト上で"economic, environmental and social sustainability"と説明されています。GRIの目指すガイドラインは、あくまでこのサスティナビリティに関する報告書を作成するためのガイドラインだと言えます。


IIRCとGRIは、基本的には大雑把にはいずれも企業の社会的責任に関するレポートのフレームワークないしはガイドラインを作成することを目指していると言えると思いますが、その目指す所を具体的に表現した言葉は異なっています。既に両者は報告書のスタンダード作りで連携していくことを確認し合っているため、今後は二つのスタンダードのすり合わせが進むものと思います。

次の記事で両者の違いと共通点を浮かび上がらせる「マテリアリティ」という概念について見ていきたいと思います。


2013/07/29

日本企業の経営倫理とCSR

日本企業のCSRを巡る議論において、自社の持つ経営理念や、日本が昔から持つ商売人としての倫理観(近江商人の三方よしの考え方、渋沢栄一の論語と算盤、松下幸之助の経営哲学など)を振り返り、日本企業は昔からCSRを行ってきた、その原点に戻ろう、という議論が良く聞かれます。

本当に同じものを比べているか、
吟味する必要がある。
これらの考え方はそれぞれの立場から「社会」というものを意識した経営・商売の重要性を指摘してきたものだと思います。日本企業がこれらの日本企業の原点とも呼べるものを無視して企業経営を行うと、いずれ構造矛盾を生む可能性があり、これらの概念が根底に流れていることを認識することは企業経営において重要なことの一つだろうと思います。しかし、これらの概念や考え方が生まれてきた背景と現代社会の状況との相違点と共通点を熟慮することなく、自社や日本企業の伝統に思いを馳せ、短絡的に過去の考え方に戻り、しかもそれを「CSR」として認識することは、CSRの本質を見誤らせるのではないかと考えています。

丸山真男が「日本の思想」の中で、日本人の思想継起の仕方についてこのように述べています。

伝統思想がいかに日本の近代化、あるいは現代化と共に影がうすくなったとしても、それは(中略)私達の生活感情や意識の奥底に深く潜入している

過去は自覚的に対象化された現在の中に「止揚」されないからこそ、それは言わば背後から現在の中にすべりこむ

新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向き合わずに、傍におしやられ、あるいは下に沈下して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。

丸山真男の指摘をよりわかりやすく言うとこういうことになります。

これまでAという考え方が常識であったのに対し、Bという考え方が現代的だと言われるようになり始めた。ここで日本人は、AとBはどのように異なり、どのような理由でBを取り入れていくべきなのか、AとBを統合したり並立したりする方法はないのか、などの検討を行うことなく、Bに飛びつく傾向がある。その結果、Aは一旦忘れ去られるのだが、明晰な思考を通じてAを棄却したわけではないため、Aは日本人の根底に残る。そしてふとした時にAというものもあった、実はAも良いのではないか、と言い始めることがある

これらは日本人の思想継起の特徴(というより問題点)として丸山真男が指摘しているものですが、まさにこの指摘が日本でのCSRを巡る議論にも当てはまるのではないかと考えています。

過去に日本型資本主義の精神の一つであったと思われる「三方よし」などの考え方は、いつしか日本人の無意識下に取り込まれました。その後CSRという概念がしっかりと吟味されること無く取り入れられますが、何をしたら良いのかよく分からない状態が続きます。そしてふとした瞬間に、無意識下にあった過去の概念がCSRに似ているのではないかとして、今になって思い出されたという捉え方です。

過去の三方よしなどの考え方とCSRは、確かに似ている部分もあるかもしれませんが、全てが合致するわけでは無いと思います。まずは過去の概念や経営理念が何を意味していたのかを正確に把握すること、次にCSRにおいて何が求められているのかを再確認すること、その上で両社の相違点と共通点を明確化し、何を過去の伝統の一部とし、何を新たな取り組みとするのかを認識し直すこと。これらのステップを踏むこと無しに、単純に我が社は過去からCSRに取り組んできましたと声高に言うことは、丸山真男の指摘する日本人の思想継起における問題の繰り返しそのものと言えるのではないかと思います。

自社の過去からの経営理念をベースにCSRを主張する企業があった場合には、その主張がしっかりとした議論を踏まえたものとなっているかを確認する必要があるのではないかと考える次第です。


2013/06/30

租税回避を巡る議論から見えてくること(2)

前回の続きで、租税回避を巡る議論から見えてくる3点のうち、ステークホルダーの要求の変化とlevel playing fieldという考え方について考察したいと思います。


ステークホルダーの要求の変化


以前から指摘はされていた租税回避ですが、ここまで大きな問題として世界中のマスコミで取り上げられ、各国政府が対応に乗り出したことはこれまでになかったのではないかと思います。このことはステークホルダーからの要求が時代によって変化するということを表しているように思います。今回の租税回避の問題と同じように、以前は指摘されていなかったことが時代の変化と共に浮かび上がり、問題として指摘され始めるということは多々あります。例えば、責任の範囲という意味で以前は単体の活動のみ考慮していれば良かったものが今ではサプライチェーンにも遡って責任が問われるようになっていますし、責任の種類という意味では水の使用量などが新たな問題として取り上げられつつあります。企業がCSRを適切に実践していく上では、時代と共に変化するステークホルダーからのこれらの要求をしっかりと汲み上げていく必要があります。
ステークホルダーからの
要求は変化する

CSR実践の為のガイドラインとして有名なのがISO26000ですが、ISO26000は「ステークホルダーの特定及びステークホルダーエンゲージメント」がCSRの前提となると指摘しています。ステークホルダーエンゲージメントとは、非常に簡単に言えばステークホルダーとの対話を行い、それを通じて自社の事業活動のあり方(プロセスとプロダクトの両方)を改善していくことです。「私たちは社会にとって良いことをしています」と勝手に言うのではなく、自分たちのやっていることが社会にどう評価されているのかをステークホルダーとの対話によって把握しなくてはならないということをISO26000は示しています。

CSRはあくまで社会からの要請に基づいて、自社活動の社会へのマイナスのインパクトを減らし、プラスのインパクトを増やしていくことであり、社会からの要請を確認する上でステークホルダーの特定とステークホルダーエンゲージメントは不可欠なアクションです。そして重要なのはこのステークホルダーエンゲージメントを継続的に実行することです。ステークホルダーエンゲージメントを継続的に実行することによって、企業はステークホルダーの要求の変化を適宜事業活動に反映させ、時代の要請にあったCSR活動を実行していくことが出来るようになります。

租税回避の指摘を受けている企業は、今まさにステークホルダーからの"適切な納税"という新たな要請に直面し、対応が求められている状況と言えます。しかし、一体何が"適切な納税"なのかはステークホルダーの側もまだ分かっておらず、今は感情論が専攻しているように思います。ステークホルダーが常に正しいとは限らず、ステークホルダーが自分たち自身の要求したいことを常にきちっと理解できているわけでもないと思います。そのため、企業側もしっかりと主張し、対話を継続していく中で進むべき方向について合意を形成していくことが重要です。これもステークホルダーエンゲージメントの重要な役割の一つだと考えることができます。


level playing fieldという考え方

租税回避問題の難しさは"level playing field"が確立されていない点にもあります。"level playing field"を意訳すると、「公平な競争条件」といった具合になると思いますが、要は国ごとに規制が異なり、国ごとに納税に対する市民の考え方も違う為、グローバル市場の中で租税回避によるアドバンテージを享受できる企業とアドバンテージを享受できない企業が発生してしまうということです。

全ての企業が「共通のルール」の中で
競争する環境を整備する必要がある
仮に現在租税回避が問題視されている国々で、今後"適切な納税"が何かについての合意がなされ、それがCSRとして認識されるようになり、現在やり玉に上げられているような有名グローバル企業がそれらへの対応を行ったとしても、グローバルにlevel playing fieldが確立されない限り租税回避を継続する企業は存在し続けます。そしてそういう企業はマーケットで一定の競争力を維持することが可能になります。IT業界のように動きが大きく早い市場においてはわずかな競争力の差が致命的なものとなる可能性もあります。

これは租税回避に限ったことではなく、CSRへの対応が企業にとってのコスト増となるケースにおいては、CSRを果たしている企業が市場競争においてディスアドバンテージを被る(逆に言えばCSRを果たしていない企業がアドバンテージを得る)ことになるため、level playing fieldを整備し、全ての企業が適切にコストを負担する競争環境を整えることが非常に大切です。CSRを実行しようとしている企業が戦っている競争環境全体でlevel playing fieldが形成されない限り、この種の議論は繰り返されていくことになるだろうと思います。


2013/06/08

租税回避を巡る議論から見えてくること(1)

企業の租税回避を問題視する声が
これまで以上に大きくなっている
最近、グーグル、アップル、スターバックス、アマゾンなど、名だたる多国籍企業が各国で法人税を十分に支払っていないとの指摘を受けています。アップルはCEOが米国議会で、スターバックスは役員が英国議会で、それぞれ厳しい追及を受けました。彼らは法律を守っており、法律の範囲で所謂租税回避を行っています。また最近になって突然始めたのではなく、恐らく以前から行っていたのだと思います。企業側からすれば法律違反はしていないし、何を今更、といった感じでしょう。また「株主価値を最大化することこそ企業の使命」と考える立場からすれば、むしろ租税回避は積極的に行われるべきではないか、という結論もあり得ます。この租税回避の問題をどのように整理すれば良いのか、様々な議論があると思います。

一連の租税回避に関する議論から、CSRに関する論点が3つ見えてくるのではないかと考えています。1つは企業の存在意義、2つ目はステークホルダーの要求の変化、そして3つ目はlevel playing fieldという概念です。


企業の存在意義

上述の通り、利潤を最大化し、株主価値を最大化していくことが企業の目的だと考える場合、租税回避は一つの認められるべき選択肢となります。これを選択肢として捉えて良いかどうかを考える上では、そもそも企業は株主の為に存在するのか、ひいては企業は何の為に存在するのか、という点について改めて考えることが必要です。これは大きな質問ですが、CSRとは何なのかという問いは、この質問に答えない限り正確に答えることができません。東京大学教授の岩井克人氏が著書「会社はだれのものか」において、一般に「企業」と言われるものは正確には「法人化された企業」であるという点に触れながら、この問いに対する答えを出しています。

法人とは、社会にとって価値を持つから、社会によってヒトとして認められている(中略)そうすると、少なくとも原理的には、法人企業としての会社の存在意義を、利益の最大化に限定する必要などない

「(社会にとっての価値とは)まさに社会が決めていく価値であるのです。

本当はもっと細かく会社(=モノとしての企業の法人化)の構造やそれを取り巻く社会システムについて大変示唆に富んだことがたくさん書かれているのですが、本書の結論だけ述べれば、株主が会社の全てをコントロール出来るとする考え方は法理論上は誤りであり、会社にどのような役割を与えるかは社会が考えて決めることである、ということだと思います。

会社の存在意義を考える上では、会社とは法人であり、法人は社会の承認によってその存在を認められているという法人制度の原点に立つ必要があります。法人制度の原点に立ち戻って企業の存在意義を再考すると、企業は株主の為にあると考えるのも社会としての結論であり、企業は社会的責任を果たすべきだというのもまた社会としての結論だということになります。つまり社会が企業のあり方について決めていくということです。その中で、特に先進諸国においては、企業は利潤を追求するだけでなく社会的責任も果たしていくべきだと考える声が、特にリーマンショック以降徐々に大きくなっているというのが現状なのではないかと思います。

企業は利潤を追求するためにあるという考え方を所与の前提で不変と捉えるのではなく、社会としてどの様な役割を与えていくのかを常に考え直していくことが必要です。ここでもやはり、前回の投稿で述べた民主主義の発展が重要になり、国民として政府を通して、もしくはステークホルダーとして直接、企業に対して働きかけを行っていく意識と行動が求められると思う次第です。

ライセンスなしで運転してはいけない
先日参加したGRIの国際会議でたびたび聞かれた言葉が"License to operate"でした。CSR活動は企業にとってlicense to operateを得る為に必要だ、つまりCSRを果たさない企業は事業活動を行う資格がない、という文脈で使われていました。以前は法令遵守が企業活動の前提だと言われていましたが、今は適切なCSR活動を行っていなければ社会が企業が活動することを認めなくなりつつあるということだと思います。租税回避を行う企業に対する英国でのデモや、幹部が議会で追求を受けている様子から、今の社会は租税回避を行う企業には、たとえそれが合法的な手段によって行われていたとしてもlicense to operateを与えないという力が働きつつあるように思います。これは今の国際社会が多国籍企業に対して求めていることであり、企業が認識していかなければならないものなのではないかと考える次第です。


租税回避を巡る議論から見えてくる残り2つのこと、ステークホルダーの要求の変化とlevel playing fieldという考え方について、次回の記事で書きたいと思います。



2013/05/26

CSRと民主主義の関係

先日、ビジネススクールのクラスメイトだったスペイン人のEがロンドンに来ました。ちょうど良いホテルが無いのでCRAFTSMANの家に泊まらせてくれないかと連絡があり、リビングに泊まってもらいました。Eはもともと金融機関に勤めており、卒業後も金融関係の仕事を狙って現在就職活動をしています。Eは非常に面白い奴です。

何が面白いかというと、自分のやりたいことを遠慮なくやり、欲しいことをどんどん要求してくるところが面白い。今回も気づけば平気でテーブルに足を乗っけていましたし(確かにテーブルが低いので、ソファーに座るとちょうど足を乗せられる高さなのですが)、突然テレビを点けて見始め、電気のプラグなど勝手に抜いて自分のパソコンや携帯の充電をしていました。また「ちょっと部屋が明るいんだけどアイマスクある?」「もうちょっと冷たい水ない?」「電気のプラグ変換欲しいんだけど?」など、一応私の家なのですが、遠慮なくずばずば要求してきます。

Eは以前にも一緒に行った銀行や旅先のホテルなどで、手数料や宿代や部屋の温度など、納得がいかなければ最後まで主張し、交渉していました。他のスペイン人の友人ともホテルの部屋などをシェアしたことがありますが、ここまで積極的な奴はいなかったので、Eは確かに奔放だとは思います。しかし私自身の経験では、自分を含めて日本人と比べると、他の国からのクラスメイトは自分の要求や主張を相手に伝えることに積極的であり、相手に大きな迷惑がかからないと判断した場合には遠慮なく自分のやりたいことをやる傾向にあるように感じました。

これらのクラスメイトと共に過ごした時間を含め、日本を出て生活していて気づいたことは、日本の人たちが相手のこと、つまり相手が何をしてほしいか・何をしてほしくないか、を考えることに非常に長けているということ、また逆に海外の人たちは相手は何か自分にして欲しいことやして欲しくないことがあれば言ってくるだろうと考えているということです。そのため、自分にとって迷惑なことを相手が始めた場合、それをやめるよう明確に主張する必要があります。主張すれば相手がその行為を止めるか、もしくは反論があり、その場合にはそれにまたしっかりと反論する必要があります。いずれにしても、何をどうして欲しいのか、明確に伝えることが重要だということを色々な場面で感じてきました。そして日本で育ってきた自分にとって、それは精神的に疲れる作業でした。

こういった経験をする中で日々思い出されたのが丸山真男の「『である』ことと『する』こと」の中の「権利の上にねむる者」でした。

「(時効という制度は)金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのにはずいぶん不人情な話のように思われるけど、この規定の根拠には、権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという主旨も含まれている

請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいる

民主主義の発展がCSRの発展にもつながる
昨年私が住んでいたフランスはデモの盛んな国であり、ストライキも日常茶飯事です。それらの行動の根底には権利意識があり、それを積極的に行使していく文化があります。どのような形で自分の権利を主張するかはそれぞれですが、権利意識を持ち、それを主張する傾向は欧米諸国一般に持ち合わせた姿勢ではないかと思います。やりたいことをやる権利、自由に表現する権利、文化的な生活を営む権利、それらの権利を自らが保有しているという認識と、それを積極的に展開していく習慣は、恐らく生活の中で彼らが自然と身につけていったものなのではないだろうかと思います。丸山真男の言葉を借りるならば、彼らは権利の上にねむることなく、権利を持っているという自分の地位に甘んじずに請求する行為を不断に継続していると言えます。

もちろんそれがネガティブな方向に働くこともままあります。主張の文化は衝突の文化でもあり、また自分さえよければ良いという自己中心的な行動も誘引します。海外で海外の人材と生活する中で、ちょっとした憤りを感じる場面(相手がこちらのことを何も考えずに行動するなど)はいくつもありましたし、その多くが彼らの文化の根底に流れるこれらの考え方を反映していたと思います。権利意識を持つ人間は他人の権利にも敏感であるべきであり、自他の権利の両方について敏感であることこそ成熟の証ではないかと思いますが、なかなかそれを期待するのは難しいなと感じたことも事実です。しかし、そういったネガティブな面をコントロールしながら、各人が権利をしっかりと認識し、互いに主張し、建設的に議論することは、社会を発展させていく為に不可欠なプロセスであり、それこそ民主主義の本質ではないかと思います。

そしてこれはCSRを考えていく上でも非常に重要な考え方なのではないかと私は考えています。CSRは社会からの具体的な要請があって初めて必要になるものです。ステークホルダー、即ち社会の中で生活する人達が自分たちの権利に基づいた要請をしなければ、CSRを行う必要はないですし、行われることはありません。またCSRの前提となるステークホルダーエンゲージメントは、企業側がそれらの要請に応じて建設的な議論の場を設定して、対話を通じて事業のあり方を改善していくことを求めています。これらの点から、CSRの発展は民主主義の発展の度合い、もう少し丁寧に言えば国民一人一人の権利意識とそれに基づいて行動を起こす意識の高さに左右されるのではないかと私は考えます。そして、日本でCSRをより効果的なものとしていくにあたっては、本当の意味での民主主義がもう少し発展していくことが必要なのではないかと考える次第です。

2013/05/25

銀行の社会的責任とは

GRI(Grobal Reporting Initiative)の国際会議に参加の為、アムステルダムにおります。今回の国際会議は世界80カ国から1500人を超える人が参加しており、GRIが主導するsustainability reportのガイドラインの最新版であるG4の発表に併せ、企業のCSR活動、CSRレポート、CSR関連規制のあり方や現状等について、活発な議論が行われています。3日間に亘って様々なテーマで有識者によるディスカッションが行われ、大変興味深い話をいくつも聞くことができました。後日振り返りながらまた色々書いていきたいと思いますが、銀行の役割について触れられていたものがあったので、それについてメモ代わりに書いておきたいと思います。

銀行が社会に与える影響は大きく、
彼らが社会的責任を果たしていくこと
には非常に大きな意味がある
"Will Europe lead the way?"と題されたパネルにおいて、European Commissionが立案したNon-financial information(非財務情報)の開示ルールについてのプレゼンが行われました。プレゼンターは欧州委員会のコミッショナーの一人であるMichael Barnier氏で、プレゼンでは現在の欧州の経済危機の状況についての説明と共に、持続可能な成長の為にはreal economyへの長期的な視野を持った投資が必要であり、その為に責任ある企業活動の透明性を高めていくことが不可欠だとの指摘がありました。そういった観点から欧州連合は非財務情報の開示に関するルール設定を行っていこうとしているわけですが、その中で、このプレゼンにおいては枝葉の議論でしたが、Barnier氏が以下の主旨のような発言をしていました。

「銀行に元の仕事(original tasks)に戻ってもらう必要がある」

Barnier氏が指摘した銀行のoriginal tasksとは、上述の通りreal economyへの投融資、即ち産業を育てていくような投融資を意味しているのですが、その発言を聞いた時、銀行が担うべき役割と社会的責任とは何かを改めて整理する必要があると感じました。特にBarnier氏の発言において考えられていた銀行(商業銀行・投資銀行)の企業への融資・投資業務をイメージして考えたいと思うのですが、銀行の企業の社会的責任=社会(=ステークホルダーの集合体)からの期待に応えていくことであるという所から出発した時、そこには以下の3つの責任があるのではないかと思います。
  1. 稼ぐ
  2. 事業を育てる・支援する
  3. 社会的責任を果たしている企業を応援する
銀行の責任を上記3つに分けて考えることで、銀行が社会において果たせる役割がより明確になるのではないかと思うので、一つずつ見ていきたいと思います。


稼ぐ

銀行は稼ぐことを期待されています。預金者や債権者は元本の返済と金利を求めていますし、投資家はキャピタルゲイン、インカムゲインを求めています。稼ぐことが期待されているのは当然銀行に限ったことではなく、民間企業一般に言えることであり、社会からの期待に応えるというCSRの本質を考えた時に、しっかりと利益を出していくことは企業の重要な責任の一つだと言えます。問題は他の2つの責任が無視され、この「稼ぐ」という責任だけが追及された場合に発生するのではないかと思います。特にリーマンショックに至るまでの金融機関の一連の行動は、主に株主利益の最大化の論理と過剰なリスクテイクを促進する報酬体系の組み合わせによって、銀行をこの「稼ぐ」という行為に(歪んだ形で)固執させたと考えられます。この状況は結果としてリーマンショックとその後に続く世界全体の不況を招き、欧州金融システムの混乱のきっかけになりました。これをきっかけに金融機関への信頼が大きく揺らぎ、金融機関のあり方に関する議論が高まってきたと言えます。(尚、この件についてはその状況を野放しにした若しくは促進してしまった政府の責任についても指摘すべきことや見直すべき点はあり、それが銀行規制のあり方やロビー活動の見直し、国際的な金融監督体制の構築などの議論に繋がっています。)


事業を育てる・支援する

必要なところにお金を流していくのが銀行の社会的な役割であり、その高い専門性を用いて適切な企業に適切な形で資金を提供すること、それによって効率的・効果的に企業を育て、支援することは、銀行が社会に期待されている重要な役割です。ベンチャーキャピタルの活動が活発化していくことは日本に新たな産業が形成されていくことを促進すると思いますし、PEの活動や投資銀行のM&A支援なども資本のより効率的な利用や事業再生につながるだろうと思います。また商業銀行も、特に日本においてはメインバンクシステムの中で、事業を育て、支援する上で非常に重要な役割を担ってきたと言えます。この役割がBarnier氏の指摘した金融のoriginal tasksであり、稼ぐという責任も考えると、この事業を育てる・支援するという役割をまっとうした結果としての稼ぎこそが銀行の追求すべき稼ぎではないかと思います。


社会的責任を果たしている企業を支援する

事業のプロセスと結果の両方において、社会への外部不経済を最小限に抑える努力をし、その上でプラスの影響を与えることを追求している企業に融資・投資を行うことを銀行の社会的責任の一つとして捉える考えです。これは主に社会的責任投資(SRI)が目指す所ですが、融資においても金融機関が自主的に赤道原則(Equator Principles)を設定するなど、SRIと似たような考え方が拡大しています。今回のGRI国際会議でも"Integrating ESG into investors' decision making"と題されたパネルディスカッションが設定され、ゴールドマンサックスのアナリストがパネルとして参加しており、これは社会から新たな期待として銀行が今後認識していく必要のある役割だと改めて感じた次第です。社会的責任投資の基本的な情報については前回の投稿で触れましたが、銀行がこの役割を積極的に発揮していくことで企業がより責任あるものに事業活動を改善していくインセンティブを働かせることが期待出来ます。そしてこの三つ目の責任こそが、銀行がCSRとしてより積極的に取り組むべき活動ではないかと私は考えています。


上記3つのうちのどれか一つだけを目的化するのではなく、しっかりと社会的責任を果たすためにこれらを同時に達成していくことが重要だと考えます。そしてそれを可能にする社会システムを作っていくことは持続可能な発展を促進していく大きな力となるはずです。今後も適宜この件については考察を深めていきたいと思います。

2013/05/14

社会的責任投資に関する基本情報

Principles for Responsible Investment
社会的責任投資は日本ではまだ一般的に認識されているとは言い難いですが、欧米では既に拡がりを見せています。

事実の羅列になりますが、社会的責任投資に関する基本的な情報をまとめておきたいと思います。


社会的責任投資とは何か?

英語ではSocially Responsible Investment(SRI)、もしくは単純にResponsible Investmentと呼ばれています。一般的に社会的責任投資とは、通常の財務情報の分析に加え、ESG情報の分析も投資の意思決定に組み込む投資を指します。ESGとはEnvironment(環境)、Social(社会)、Governance(ガバナンス)の頭文字をとったものです。財務パフォーマンスが良好なだけでなく、社会的責任も果たしている企業を選別する投資と言い換えても良いと思います。以前の投稿で示したCSRに関連するプレイヤーのうち、金融機関の立場からCSRを促進する方法の一つとして考えられています。


PRIとは何か?

PRIとはPrinciples for Responsible Investmentであり、日本語で責任投資原則と訳される6つの原則です。これは社会的責任投資がより多くの投資家によって効果的に実行されるものとすべく設定された国際的なガイドラインです。元国連事務総長のコフィー・アナン氏が2006年に提唱したもので、現在国連環境計画と国連グローバル・コンパクトが推進しています。2013年5月14日時点で全世界1,195社の資産運用会社などが署名しています。日本からは27社が署名しています。
http://www.unpri.org/


PRIの6つの原則

1. We will incorporate ESG issues into investment analysis and decision-making processes.
(私たちは投資分析と意思決定のプロセスにESGの課題を組み込みます。)
2. We will be active owners and incorporate ESG issues into our ownership policies and practices.
(私たちは活動的な(株式)所有者になり、(株式の)所有方針と(株式の)所有習慣にESG問題を組み入れます。)
3. We will seek appropriate disclosure on ESG issues by the entities in which we invest.
(私たちは、投資対象の主体に対してESGの課題について適切な開示を求めます。)
4. We will promote acceptance and implementation of the Principles within the investment industry
(私たちは、資産運用業界において本原則が受け入れられ、実行に移されるように働きかけを行います。)
5. We will work together to enhance our effectiveness in implementing the Principles.
(私たちは、本原則を実行する際の効果を高めるために、恊働します。)
6. We will each report on our activities and progress towards implementing the Principles.
(私たちは、本原則の実行に関する活動状況や進捗状況に関して報告します。)

第1の原則で投資の分析と意思決定過程においてESG課題を考慮するとしているだけでなく、第2の原則でactive ownersとしてownership policies and pracicesにおいてもESG課題を組み込んでいく点に大きな特徴があると思います。今後触れていきたいと思います。
http://www.unpri.org/about-pri/the-six-principles/
(和訳はPRI日本語サイト)


社会的責任投資は世界でどの程度実行されているのか?

Wikipediaによると2011年の全世界の運用資産(Asset Under Management)の合計金額はおよそUS$ 79.8 trillionですが、2013年4月時点で約US$ 34 trillionがPRIの署名企業によって運用されている金額であり、2012年においては少なくともUS$ 13.6 trillionが社会的責任投資として実際に運用されている金額と推測されています。(PRIに署名していても全投資をSRIとする必要はない為、実際にはPRI署名企業でも通常の投資が行われています。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Global_assets_under_management
http://www.unpri.org/news/pri-fact-sheet/
http://gsiareview2012.gsi-alliance.org/#/6/


この辺りが最も基本的な情報ではないかと思います。今後社会的責任投資に関してもう少し具体的な情報に触れながら考察を深めていきたいと思います。


2013/05/06

チョムスキーと企業

「アメリカの良心」
とも呼ばれている
初めてチョムスキーの存在を知ったのは2008年にNHKの「未来への提言」という番組をみた時でした。彼が出演した際のテーマは「真の民主主義を育てる」であり、番組中にアメリカの民主主義の劣化や、イラク戦争や、京都議定書への反対などに現れた当時のアメリカの単独行動主義を痛烈に批判していた記憶があります。

先日(3月頭)チョムスキーがある論稿を発表しました。
http://www.alternet.org/noam-chomsky-can-civilization-survive-capitalism

"Can Civilization Survive Capitalism?"と題されたその論稿はやはりアメリカ社会の現状を憂うもので、いつも通り、その現状を痛烈に批判しています。論稿の中で、チョムスキーは今のアメリカの民主主義を"really existing capitalist democracy"、略して"RECD"と呼び、これは真の民主主義とは呼べないと指摘しています。民主主義とは本来公共の意思がしっかりと反映される形で政策が策定・実行される政治体制を意味し、現状のRECDは"plutocracy"(金権政治)であり、その本来の民主主義から大きく乖離していると。

2003年に和訳が発行された著書「メディア・コントロール」の中で、チョムスキーは2つの民主主義社会について述べています。一つは「一般の人びとが自分たちの問題を自分たちで考え、その決定にそれなりの影響をおよぼせる手段をもっていて、情報へのアクセスが開かれている環境にある社会」であり、もう一つは「一般の人びとを彼ら自身の問題に決してかかわらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間のあいだだけで厳重に管理しておかなければならないとするもの」です。チョムスキーは後者の民主主義こそ現在のアメリカにおける民主主義であるとしており、今回の論稿はこれらのことを改めて指摘したものと言えます。

チョムスキーのこれらの指摘は、現在の(基本的にはアメリカにおける)企業と政治の関係に対する彼の否定的な(というよりはこれを完全に否定する)見方と密接に関わっています。彼の指摘は決して難しいものではありません。むしろ単純とすら思えます。要は企業が主に広告主としてマスメディアに影響を与え、またロビー活動や献金を通じて政治に強い影響力を及ぼしている、それらの結果アメリカの真の意味での民主主義が衰退している、というものです。

今回の論稿におけるチョムスキーの主張のポイントは、現在のアメリカの民主主義が特定の利権集団の便益を偏重するシステムとなってしまっているという点だと思います。そして中でも強力な力を持っている利権集団の一つが企業だということです。チョムスキーがその著書や講演等で特に問題視している企業の影響力は以下の3点です。
  • 政治への影響力
  • マスメディアへの影響力
  • 従業員への影響力
次回以降でこの3点について私が思うことを書き、社会における企業のあり方について考察を深めたいと思います。


2013/04/26

CSRのプレイヤーとそれぞれの役割

これまで何度か政府がCSR促進に何らかの役割を果たせる可能性について触れてきましたが、政府も含めて、CSR促進においてどのようなプレイヤーがいてどのような役割を果たせるのかを改めて整理しようと思い、ブレストのために添付のようなツリーを作りました。

真ん中で囲われた部分が、CSRについて考える際に通常認識される領域だと思います。つまり「企業はどのようにCSRを果たしていけるか」という観点です。最終的には企業が対応することが必要なため、当然ですがこの囲われた部分について考えていくことが一番重要なのですが、実際には企業が対応していくように促すことが出来るプレイヤーが企業の周りに存在しており、それぞれが様々な方法でCSR促進に関与できるように思います。欧州の動きを見ていると、かならずしも連携はしていないものの、各プレイヤーのそれぞれがCSR促進に積極的な役割を演じようとしていることが伺えます。

前回の投稿でEU委員会の掲げるCSR政策について触れましたが、EUは現時点では積極的な規制を作るというよりは、ガイドラインの策定や公共調達、ベストプラクティスの事例の提示などを行うことでCSRを促進しようとしています。CSR報告の義務付けやその内容の厳格化など、規制を強化すべきだという声も上がっているようですが、規制に対しては産業界の反発もあり、現在は慎重という話を聞いたことがあります。

また前々回に少し紹介したPRI(Principles for Responsible Investment)やSSEI(Sustainable Stock Exchanges Initiative)も、国連と金融機関や証券取引所が連携してCSRを促進していこうとしている事例に当たると思います。

今後このツリーの精度を高めつつ、各プレイヤーの活動やイニシアチブ、プレイヤー同士の連携の可能性などについて具体的に見ていきたいと思います。

2013/04/10

政府はCSRを促進する役割を発揮できるか?(2)

CSRが注目されていることの背景に企業がその影響力を強めているということと、(グローバル化やロビー活動などによって)政府が効果的な政策を打てなくなってきている状況があるということを見てきましたが、その状況でも積極的にCSRを促す役割を担おうとしているのが欧州政府です。EUでは欧州委員会が新CSR戦略というものを打ち出し、彼らが既に設定しているEU2020という成長戦略における政策目標達成の為の重要なツールとしてCSRを促進していこうとしています。(EU2020: http://ec.europa.eu/europe2020/index_en.htm)

先日、PRI(Principles for Responsible Investment)とICGN(International Corporate Governance Network)が主催したパネルディスカッション"ESG in perspective: Realities of integration and priorities for reform"に参加してきました。そのパネルディスカッションの内容も面白かったのでまた改めて考察したいのですが、パネルディスカッションの前にEuropean Commission(欧州委員会)のロンドン代表部担当者が、EUのCSR政策が何を目指しているかについて、簡単なスピーチをしていました。彼が特にポイントとしていたのはEUによるCSRの定義です。

CSRの定義の投稿にて述べた通り、現在のEUによるCSRの定義は"The responsibility of enterprises for their impacts on society"です。これは2011年10月に策定された欧州の新CSR戦略である"A renewed EU strategy 2011-14 for Corporate Social Responsibility"にて設定された定義です。実はEUはそれまで別のCSRの定義を設定していました。それがこちらです:

“a concept whereby companies integrate social and environmental concerns in their business operations and in their interaction with their stakeholders on a voluntary basis”(企業が社会及び環境への配慮を事業運営とステークホルダーとの対話に自主的に統合するという概念)

これは2001年にEU委員会が発表した"Promoting a European framework for Corporate Social Responsibility"というグリーンペーパーの中で言及されたものです。このグリーンペーパーの目的はCSRをEUの政策目標達成の為に活用する可能性についての議論を喚起し、CSR促進のための新たな枠組み作りのイニシアチブを立ち上げることにありました。このグリーンペーパーを皮切りに、EU委員会はCSR促進の為に積極的な役割を演じてきました。

CSRの定義の変更は、EUとして今後更にCSR促進に立ち入って行くことを暗に示していると言えます。ポイントはこれまでの定義にあった"on a voluntary basis"という文言が取り除かれた点です。新たな定義を設定した新CSR戦略においても、EU委員会は依然として"The development of CSR should be led by enterprises themselves"としていますが、同時に政府は政策や規制によってそれを支援すべき("Public authorities should play a supporting role")だとしています。つまり、以前までのようにCSRは企業の自主的な取り組みによって行われるものだ、という考え方ではなく、政府がそれを支援しうるものだという考え方にシフトしたということです。

このEUの新CSR戦略を読むと、支援という言葉を使ってはいますが、実際には相当積極的に政府がイニシアチブをとってCSRを促していく方向にあるように感じます。今後も議論が続くでしょう。ちなみに、日本でも経済産業省が政策としてCSRを促進していくべく議論を始めています。(経済産業省: http://www.meti.go.jp/policy/economy/keiei_innovation/kigyoukaikei/index.html)
経産省のウェブサイトを読む限りですが、EUを手本と捉えた場合に考えられる現在の日本のCSR政策の課題として以下があるように思います:
  1. 明確な政策目標の設定 → CSRの位置づけを定めるべく、EU2020のように、まずどこに向かうのかを明確にする必要があります
  2. CSRの定義の明確化 → BOPビジネス、ソーシャルビジネスなどの概念とCSRを混同すると政策を見誤る可能性があります
まだまだ不勉強ですが、世界各国・各地域の政府がCSR促進にどの様な役割を演じていくのか、引き続き注視して行きたいと思います。

2013/04/06

政府はCSRを促進する役割を発揮できるか?(1)

少し前の話ですが、2月にtomorrow's companyというシンクタンクが主催した、”Sustainable Capitalism and the transition to a low-carbon economy”と題されたパネルディスカッションのイベントに参加してきました。パネルディスカッション後、ある社会的責任投資の調査会社のリサーチャーが質問をしていました。

「CSRを積極的に実行している企業が中長期的にみて優良な投資対象となると考えられてきた背景の一つとして、今後政府が温暖化ガスの排出や水資源の利用に関連する規制を設定するようになるという観測があった。しかし、私は15年間それらの企業のリサーチを行ってきたが、企業の活動に決定的な影響を与えるような規制は作られて来なかった。それでも引き続き政府の規制や行動を意識して、持続可能な社会発展に沿った企業活動に投資をしていくべきなのだろうか?」

これに対し、パネルの一人、Aviva InvestorのChief Responsible Investment OfficerであるSteve Waygood氏が以下のような回答をしていました。

「Stern Reviewを引用すると、Climate Changeは市場の失敗の最たるものだ。市場の失敗は政府がこれを是正することが必要だが、政府がそれらの規制を作っていくことは今後も難しいだろう。グローバル化が進む中で現在のガバナンスのシステムはそれに適切に対応できるものになっていない。また産業界や金融界は積極的なロビー活動を展開していることもあって、政府が彼らにとって不利な規制を積極的に作っていくことは簡単ではない。ロビー活動の透明性を高めて行くことが重要だ。」

政府は役割を発揮できるか
Waygood氏が述べる通り、政府が発揮できる役割は著しく制限されているのが実態だろうと思います。以前も書きましたが、様々な場面で各国政府の国際的な協調政策が必要とされていますが、環境問題等を中心として中々妥結点を見出すことができていません。また企業の積極的なロビー活動は様々な所でそのあり方が問われており、昨年の10月にベルリンで実施されたCSR Conferenceでも、パネルの議題の一つとして取り上げられていました。映画「インサイド・ジョブ」でも、金融機関が過剰なリスクを取り、リーマンショックが引き金となって世界が不況に陥るまでの流れの中で、金融機関がロビー活動を通じて政府に影響を及ぼしていた様子について触れられていました。企業によるロビー活動は日本では大きく取り上げられることは好くないですが、欧米では極めて積極的に行われているようです。

Waygood氏はUN PRIを策定した専門家チームの一員であり、また国連が主導するSustainable Stock Exchange Initiativeの立ち上げにも関わっていました。質問に対する彼の回答と、彼の経歴を結びつけてみて感じることは、彼は恐らく政府からインセンティブを与えていくことに限界を感じており、企業がCSRに取り組むインセンティブを社会的責任投資や証券取引所が上場企業に対して課する条件を通じて与えようとしているのではないか、ということです。

Waygood氏の真意は分かりませんが、彼の発言もしっかりと踏まえつつ、引き続き企業がCSRに取り組むインセンティブについて考えていきたいと思います。

2013/04/01

CSR競争時代とCSRの終着点

今英国はイースターの連休中です。時間が少しあったので、過去のメールを整理していたところ、社会人2年目の頃、会社でCSRについて考えていることを社内イントラ用にレポートするという役目がまわってきた際の下書きが出てきました。私がCSRについて強い問題意識があるからまわってきたということではなく、暇そうな若手に書かせようということだったのだと思います。A4で2ページ程度で、自分が日々の業務においてどのようにCSRを意識しているかを書くようなレポートだったのですが、せっかく書くのなら新しい視点をと思い、最後に以下のような結論を加えました。

社会は CSR を伴わない企業活動を認めなくなってきており、今後更なる企業努力が求められることは必至だろう。 CSR 競争時代とも言うべき時代の到来を感じる。この時代においては、(中略)既に確立されている CSR の次元を超えて、新しい CSR の基準を作り出していくことで社会をより良いものにしていくことこそ企業が社会に対して負うべき本当の責任であり、その責任を意識した事業活動を続けることこそが企業自身の持続可能な発展につながると考える次第である。

当時は特に根拠もなく、思ったことや少し考えたことを素直に書いていただけなのですが、CSRについての理解が当時よりはもう少し深まった今、上記の結論部分について、もう一度考えてみたいと思います。


CSR競争時代

互いを高め合うCSR競争と
そのためのインセンティブが必要
社員一人一人への浸透については課題が残りますが、多くの大企業が役員をCSRのトップとして任命し、経営と直結させた形でCSRに取り組もうとしています。また多くのCSR担当者が国内外の同業他社がどの様な取り組みを行っているかを見て、自社が他社に対して遅れをとっていないかを日々チェックしています。「CSR競争時代」という表現はやや大袈裟かもしれませんが、社会からの企業への要請はとどまることはなく、今後も企業はCSRの新しい取り組みをまさしく競うように進めているのではないかと思っています。もちろん、この競争が盲目的に行われるのでなく、前回の投稿に書いたような全体知や現実を見失うことなく、効果的且つ持続可能な形で実行されて行くことが重要なのは言うまでもありません。「社会的責任投資の調査会社の格付けが下がった」、「同業の他社は当社よりも良い格付けがついている」、「以前まで組み込まれていたSustainability indexから当社が外された」、「他社はこんなことをしている、当社もやるべきだ」など、目に見える評価や数値などは目立ちやすく気になりますが、実際のところ、多くの企業にとってこれらの調査機関の調査結果などが自社の事業に致命的なインパクトを与えるほどの影響力を持っているとは現状では考えづらいです。またこれらの調査結果の評価を上げたり、他社と同様の活動を行うことが目的化することも問題です。企業は競合他社の活動や調査機関の評価を参考としつつも、結局は自社が本当に取り組まなければならないことは何かということを考えて行動することが必要ですし、社会は企業のCSR競争がより良い効果をもたらしていくようなインセンティブを与える仕組みを持つことが必要でしょう。それらの結果、互いを高め合いながらポジティブな影響を社会に与えていく、健全なCSR競争の環境が整えばと思う次第です。


CSRの終着点

自ら範を垂れ、他社や関係者を巻き込んで
新しい基準を作る「CSRの終着点」
当時私が担当していた仕事では、オペレーション上の温暖化ガスの排出量を社内で報告していました。特に問題となる排出量ではありませんでしたが、報告することが求められていたこともあり、何か排出量を減らす良い方法はないものか、実践的なアイディアが出てくれば是非実行していこうと意気込んで色々と考えるようになりました。しかし、考えた結果出てきたのはインフラが整備されていないために実現不可能な方法や、競合他社が負っていないコストを自社だけが負うことになる方法ばかりであり、その時に初めて「自社だけがCSRに取り組むのでは成果に限界がある」ということを感じるようになりました。そのような状況の中でどうすれば最大限の成果を残すCSRを実践することが出来るのか、その疑問に対し私が出した結論が「既に確立されている CSR の次元を超えて、新しい CSR の基準を作り出していくこと」でした。CSRには企業にしか分からないことがたくさんあります。サプライチェーンの何処にどの様なリスクがあり、どう対応すれば社会に与えるマイナスの影響を減らすことが出来るのか、具体的なことは当事者である企業が一番良く分かります。企業が自ら問題点を認識し、可能ならば自ら対応して範を垂れてその対応をスタンダードとして社会に認知させてしまうこと、単体で対応出来ないのならば業界全体で取り組むことを呼びかけること、更には政府にも働きかけて新たな基準や規制を作るために協力することは、企業のCSR活動の次元を一つ押し上げる可能性を持っています。自社が出来る範囲で一つ上のレベルのCSRに取り組んで模範となることで新たなスタンダード作りの先陣を切り、またそれで終わるのではなく他社や関係者を巻き込んで新しいルール作りに積極的に取り組むことでより大きな成果を生む可能性を広げていくこと、これがCSRの終着点ではないかと思います。


しかしここでもやはり問題になるのが、そのような活動を企業が積極的に行っていくインセンティブはあるのかという点です。今世界各地で行われているCSR促進に向けた取り組みは、まさしくこのインセンティブをどう与えるのか、またはどこにインセンティブを見出すのかということを真剣に考え、試行錯誤を繰り返しているプロセスであると言えます。これらの点について、今後の投稿で少しずつ議論を展開していきたいと思います。

2013/03/24

CSRを考える上で意識したい2つのこと

CSRに関する情報は非常に多く、様々な人が問題意識を持って議論を展開しています。CSRの周辺的概念とも言えるSustainabilityやShared Value、BOPビジネス、ソーシャルビジネスなどの概念を含めれば、実に多くの人が問題意識を持っていると実感します。自分自身もその議論の中の一つとして、持っている知識や経験をベースに考えていることを発信していきたいと思っていますが、そもそもCSRは良いのか、CSRは重要なのか、という根本的な問いを常に意識したいと思いますし、CSRについて考える上でも特に全体知と現実を見失わないようにすることを心掛けたいと思います。


全体知を持つ

全体知を持って思索を深めて行くことは非常に大事だと思っています。私が全体知を持つという表現で言いたいことは、CSRが社会の中でどのような役割を担えるかという視点を持つということです。CSRは手段であって目的ではないので、CSRを行うべきだと一生懸命語るのではなく、社会全体がどういう方向に向かうべきか、その中でCSRが必要か、必要だとすればどのような形でCSRが実行されるべきで、その為に企業や社会が何をしていくべきか、そういう全体から落としこんでいく意識、全体との整合性の中で考える意識を常に持って議論することが大切だろうと思っています。CSRについて考え始めると、ついつい何が何でもCSR、CSRの理想はこれ、という考え方になりがちですが、政府であれば社会全体の方向性の中で、企業であれば企業戦略の中で、CSRにどの様な役割を求めるかという視点を持って考えるということが重要だと考えています。


現実を見つめる

自分自身は「CSRおたく」にならないことを意識しています。これは役割分担の問題であり、他のあらゆる領域と同じように、専門性を深めて議論を整理していき、理想はどこにあるかということを提示するCSRのプロは必要です。それと共に、最終的にはCSRに関心のない人達がそれらを理解し、実行して行くように促していくことが大切であり、結局は理想を考えながら実行可能な形を模索し、実践的なCSRの在り方を考えて進めていくことが不可欠です。その上では現実の制約が何かということを常に冷静に見つめて対応することが求められます。例えば、EUの提示しているCSRの定義をベースとした私の現時点での認識では、企業にとってCSRに真剣に取り組むことは基本的にはコストです。多くの専門家や組織がCSRが企業の競争力に繋がることを示そうと試みており、中にはCSRへの取り組みと長期的な財務リターンとの相関関係を示した論文などもあります。しかし、もちろんそういう相関関係があれば良いなと私も思っていますが、高い説得力を持っているとはまだ思えないというのが私自身の現時点での感想です。関心のある私自身ですらそのように感じているのですから、CSRにそもそも関心を持っていない人がCSRが利益に結びつくと言われてもピンとこないのは当然だろうと思います。そういった現実(CSRが本当に企業の競争力向上につながるかは必ずしも明瞭ではない、多くの人はCSRに懐疑的orそもそも関心がない、そういう人達を説得しなければならない等)を認識せず、思考停止的にCSRの重要性や理想の姿を唱えることは、むしろCSRを後退させて行くことになると思うのです。現実を理解しながら粘り強く対応する意識を持って取り組んでいくことが求められていると思います。


今後も上記の二点を踏まえながら自分自身の考えを深めて行きたいと思いますが、やはりCSRに取り組むことで、企業は社会をより持続可能なものとしていく一定の役割を担うことが出来ると私は思っています。また企業にとっても、CSRへの取り組みが消費者の不買運動のリスク回避につながったり、ブランド力向上に寄与するなどの便益があるという見方もあります。これらの効果を定量化して正確に把握することは難しいですし、これらの便益が企業にとってもより実感し易い形でもたらされるようにすることが必要だと思いますが、例えばマーケティング戦略等のように、効果を定量的に把握しにくくとも何らかのKPIを設定するなどして戦略を実行し、企業価値を高めて行こうとする取り組みは企業において日常的に行われており、CSRもそれらと同様に取り組んでいくことが出来るのではないかと思っています。自社の競争力に繋がるかどうかが曖昧な中でも、CSRと事業戦略の中に統合する方法を模索し、CSRを将来に向けた投資として捉えて中長期的な競争力を高めることに繋げようとしてきたのがいくつかの先進的な企業の取り組みであり、そういった企業は自社戦略におけるCSRの位置づけを考えるという全体知を見失わず、またCSRを実行して行く上での制約が存在するという現実を直視してCSRに取り組んでいる好例でしょう。今後はそれらの取り組みが、中小企業を含むより多くの企業に広がっていくことが理想だと考える次第です。

また地域としてそれらの取り組みを促進し、その力を社会の発展に活用しようとしているのが欧州連合だろうと思います。EU域内の個別の国の政策や企業の対応状況は別に見ていく必要がありますが、現状の大きく動揺している経済状況にも関わらず、EU自体では域内のCSRを更に押し進めて行くための提案が欧州委員会に提出されるなど、議論がなされています。これらの取り組みや動きについては、また触れていきたいと思います。

仕事においてCSRのプロとして働いているわけではない私はCSRのアマチュアですが、アマチュアだからこそ、全体知を持ち、客観的に現実を見つめることが出来ると思っています。引き続きこれらを意識しながら、特に日本企業と日本が今後の社会の更なる発展を目指す上でCSRを活用していく方法がないか、地に足をつけて考察を深めていきたいと思います。

2013/03/16

夏目漱石とCSR(4)

夏目漱石とCSR(2)において、漱石の語った個人主義の在り方と、それが日本国憲法の幸福追求権の憲法精神に関係しているという点について考察しました。今回はそれがCSRとどう関係するかを考えたいと思います。

漱石の指摘する自己本位の考え方や、憲法が定める基本的人権や幸福追求権の在り方は、要は「好きなことをすれば良い、だけど他の人が不快に思うことはすべきではない」ということだと思います。この考え方がCSRを考えるにあたっても重要だと私は考えています。

企業活動の結果としての環境問題も、
将来の世代という第三者への不利益と
捉えることができます
経済学の基本的な概念の一つに「外部不経済」があります。企業を例にするならば、企業が事業を営む中で、その事業に関わっていない第三者が被る不利益が外部不経済です。日本が以前抱えた公害問題はまさしく外部不経済の問題と言えます。この外部不経済、つまり自社の事業活動に伴う第三者への不利益をゼロにしていくということこそ、CSRにおいて最も重要な考え方です。

先日の政府の限界と企業への期待とも関わりますが、企業が社会に与える影響力の大きさは拡大しています。漱石が私の個人主義で指摘しているのは個性・金力・権力の展開において他者をしっかり尊重することが重要であるということですが、企業はまさしくこの3つの力を様々な場面で展開して行くことができます。

「個性」は企業が持つ各企業毎に異なる事業プロセスや製造工程、またその結果としての商品やサービスと言えます。それらを実行し提供していくにあたって、他者(=ステークホルダー)に与える影響をしっかりと考える必要があるということです。

「金力」はそのまま、企業が持っているお金と言えます。企業が収益を悪いことに使おうと思えば、当然悪いことにも使えますし、その使い方次第で社会を良い方向にも悪い方向にも導くことができます。企業はお金の使い方に良く注意する必要があります。

「権力」は企業が実質的に持ちうる権力と、企業が政治権力へ与えうる影響力の2つがあるように思います。実質的に持ちうる権力としては、例えば大企業が中小サプライヤーに対して持つバーゲニングパワーが上げられます。また政治権力へ与えうる影響力としては豊富な資金力を活かしたロビー活動などが当たるだろうと思います。これらの権力も、企業が乱用すれば社会にネガティブな影響を与えることになります。

公共の福祉を反しない限り幸福追求権が保障されるという憲法の精神に則るならば、公共の福祉に反する=外部不経済を与える企業活動は認められないということになります。そういう状態にならないように、漱石の言葉を借りれば、企業は「倫理的修養」を積んで「人格」を磨いていくことが求められますし、社会としても外部不経済を認識し、それが是正されるような措置をとっていくこと、またそもそも外部不経済が発生しないような仕組みをあらゆる面で作っていくことが必要になるだろうと思います。

夏目漱石とCSR(3)

前回までで二回に分けて、夏目漱石が語った「皮相上滑りの開花」と「私の個人主義」について見てきました。今回はこの2つの講演の内容を踏まえて、私がCSRについて考えたことを書きたいと思います。まずは皮相上滑りの開花から。

夏目漱石とCSR(1)で述べた通り、漱石は「皮相上滑りの開花」という表現によって、社会の内側から変化したものではない、外側から形式的に変化をもたらそうとした明治の近代化の在り方に疑問を呈していますが、私はCSRにも同じことが言えるのではないかと思っています。つまりCSRに関して、日本社会の内側で議論を深めることなく、欧米が深化させていくCSRの概念をそのまま取り入れて行こうとしているのではないかという問題意識です。

ニッセイ基礎研究所が日本のCSRの歴史についてまとめています。これによると2000年代に入るまではある程度日本国内での議論を元に、日本企業としての社会的責任の在り方が模索されていたようです。しかし2000年代に入って欧米で社会的責任投資家が増え始め、日本企業に欧米の投資家からCSR活動に関する質問状等が届くようになると、日本企業は彼らの対応してきたCSR活動が欧米で考えられているCSR活動と異なるということに気付きます。そのあたりから、急速に欧米に求められるCSRを取り入れ始めているというのが、今の日本のCSRの状況ではないだろうかと思います。(ちなみに欧と米を一緒くたに考えるのも問題があります。欧と米ではCSRに対する考え方は異なり、それ故に実践されている内容や重視されていることも異なるのだろうと思います。)私はCSRが社会をより良くしていくためのツールになるのではないかと考えており、その観点から、今の日本のCSRに対する取り組みがズレている、と感じています。

「CSR幕の内弁当」
社会全体の様々な取り組みの
パッケージとしてのCSRが必要
特に欧州を見ていて感じるのは、CSRが企業だけの取り組みで成り立つものではないということです。欧州のCSRについてこちらで見聞きしたことについてはまた改めて詳しく書いていきたいのですが、欧州においてはNGOが積極的な活動を展開していること、EU政府とEU加盟国政府がCSRを促進するような政策を進めようとしていること、投資家の意識が変化しつつあること、企業がCSRを競争力とすべく様々な取り組みを行っていることなどが相互に影響し合い、社会全体の様々な取り組みのパッケージとしてCSRを進めているように思います。アメリカにおいても、NGOの活動の積極性については同様でしょうし、社会的責任投資の考え方も進んでいます。またアメリカの場合はステークホルダーとしての地域コミュニティも伝統的に力を持っています。社会の要請や社会全体の在り方についてのイメージがあったからこそ企業活動の在り方が問われ、CSRが検討されてきたというのがざっくりとした欧米におけるCSR発展の経緯だったろうと思います。何でもかんでも欧米が進んでいるわけではありませんが、CSRに関しては議論を深めて実行してきたという意味で、やはり欧米は進んでいるだろうと思います。

日本においても上述のニッセイ基礎研究所のレポートを読む限り、2000年代に入るまではそのような議論の展開が見られたと思われます。しかし昨今の取り組みは企業のみが対応し、しかも欧米の社会的責任投資家に求められる内容にのみ気を取られており、社会の側から企業に何かを要請し、それに企業が対応していくという構図は見られないと思います。ステークホルダー(即ち企業活動の影響を受ける人達)がそれぞれ企業に対してしっかりと主張すること、また企業側がそれらの主張を引き出して対応する努力をしていくことが最も重要であり、その前提として社会の側がどういう方向に向かって行きたいのか、また企業にどういう役割を担ってほしいかを認識していることが必要だろうと思うのです。

海外投資家や海外ステークホルダーの眼が厳しくなっていることで、ある程度外発的にCSRを進めて行かざるを得ない状況はあると思います。それはそれで対応して行くことが必要です。またそれらの要請は欧米社会と日本社会の違いを浮き彫りにし、どのような社会が作って行くべきかを考える重要なヒントになり得ます。その意味で、外発的なCSRの発展も有効と言えるでしょう。しかしそれも、外圧をそういう風に利用する、という意識を持って初めて意味を持つことになります。結局のところ、皮相上滑りなCSRの導入ではなく、根本のところで社会が企業に対して何を求めているのかを考え議論していく中で、日本のCSRを発展・成熟させて行くことが重要だと考えています。

では次に漱石の言う個人主義がCSRにどう関係するのかを考えていきたいと思います。

2013/03/10

夏目漱石とCSR(2)

前回の投稿で、現代のCSRの在り方にも関わる漱石の指摘の一つ目として、「皮相上滑りの開花」を見てきました。今回はもう一つの指摘について考察していきたいと思います。


2.あるべき個人主義の形

年号が明治から大正に変わり、「デモクラシー」という言葉が初めて人々に広まり始めた頃、漱石は「私の個人主義」(1914年)という講演を行いました。その講演の中で漱石は他人に流されること無く、ものごとを常に自分の尺度ではかる、「自己本位」の意識を持つことの重要性を指摘しています。

今にして考えると当たり前のことを言っているように聞こえますが、漱石がこの講演を行った当時(1914年)は、明治維新後に士農工商の身分制度が廃止され、限られた人々にのみですが、大日本帝国憲法(1889年)によって初めて選挙権が国民に与えられてしばらく経った頃です。そして大正になって普通選挙法(1925年)が制定され、日本は民主主義国家に向けた歩みをようやく前に進めていったのだろうと思います。(その後後退してしまいますが、、)漱石が「私の個人主義」で自己本位の大切さについて語ったのは日本に民主主義が根付いていなかった時期であり、恐らく人々がまだ民主主義を理解していなかった時代でしょう。そのような時代ですから、「自己本位」のような考え方はまだまだ人々の頭の中には無かったのではないかと私は考えています。

民主主義を説明した短編アニメ

漱石が指摘する「自己本位」は、自分は何を求めているのか、自分は何処に向かうべきなのかということを人が考える上で前提となる意識であり、「自己本位」の意識が国民に根付いていなければ民主主義は形式で終わってしまうだろうと思います。漱石は講演の中で民主主義については触れていません。しかし封建社会が終了し、人々が自分の人生を自分で決めて行くことが出来る社会が作られていく可能性を日本が持ち始めたこの時期に「自己本位」の重要性を語っている理由は、漱石が遅かれ早かれ民主主義社会が到来するだろうと予想していたか、少なくともそのような方向に進むべきであると考えていたからに他ならないだろうと思います。

そしてこの「自己本位」の重要性を指摘した上で、漱石はあるべき個人主義について以下の通り語っています。

『近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符牒に使うようですが、その中にはなはだ怪しいのが沢山あります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事をいいながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念を有つ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければ済まん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己の個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。』

そしてこうも語っています。

『今までの論旨をかい摘んでみると、第一に自己の個性の発展を士遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。(中略)これを外(ほか)の言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍いい換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起ってくるというのです。』

自由な社会においては一人一人が「自己本位」の意識を持って、自分が何をしたいかを自ら考えて行動することが出来るし、そうするべきである。しかし同時に、その上では他者もまた自由に行動する権利を有するということを認識して、その権利を妨害することのないように行動することが必要となると、漱石は言っています。漱石が指摘している個性・権力・金力の発展とは、現在の日本国憲法で言う所の幸福追求権の展開です。そして日本国憲法第13条には幸福追求権について以下の通り記載されています。

『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』

ここで指摘されている「公共の福祉に反しない限り」という部分について、公共の福祉とは何かということが憲法論者の間で常に議論されています。私はこの公共の福祉を他者の幸福追求権だと捉えています。他者の幸福追求権を侵さない範囲で自己の幸福追求権を展開することを求める憲法精神こそ、漱石の言う「人格の支配」であり「倫理的修養」を積んだ結果理解されるものだろうと私は考えています。漱石は社会制度としての民主主義が本当に機能していくために必要となる国民の意識としての「自己本位」と「あるべき個人主義の形」を指摘していたと言えます。

では、漱石が指摘していた「皮相上滑りの開花」と「あるべき個人主義の形」が、一体どうCSRと関係しているのでしょうか?次回はこの点について、結論を考えていきたいと思います。

夏目漱石とCSR(1)

夏目漱石とCSR。一見すると全く関係のないように見えるこの2つの単語ですが、私は夏目漱石の考えていたことが、実はCSRにとても重要な示唆を与えてくれると考えています。


漱石が生きていたのは1867~1916年であり、まさに明治維新(1868年)直後の、いわゆる日本の文明開化と共に人生を歩んできた人物と言えます。明治維新以降の日本は、自由民権運動などを中心に民主主義を求める声も高まり、西洋文化を積極的に取り入れて近代化の道を一気に突き進み始めました。漱石はこの激動の時代を極めて客観的に冷静に見つめて、様々な指摘を行っていた日本人の一人だったと私は考えています。その中で漱石は、現代のCSRの在り方にも関わってくる重要なことを2つ指摘していました。今回はまずその一つ目を見ていきたいと思います。


1.皮相上滑りの開花

日露戦争(1904年)の直後に書かれた「三四郎」(1908年)の中に、こんな一節があります。

『「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。』

これは主人公の三四郎と広田先生の会話です。日露戦争に勝利した直後の日本は、ずっと憧れていた西洋に戦争で勝利したという事実から、大変な高揚感に包まれていました。そのような周囲を尻目に、広田先生は「日本は滅びる」と三四郎に言っています。漱石は何故広田先生に「滅びるね」と言わせたのでしょうか。和歌山で行った「現代日本の開花」(1911年)という講演において、漱石はこのように発言しています。

『西洋の開花(すなわち一般の開花)は内発的であって、日本の現代の開花は外発的である(中略)現代日本の開花は皮相上滑りの開花である』

明治維新以降の日本は欧米の文明に圧倒され、急速に西洋化を進めて社会の様々な面で西洋の考え方を貪欲に取り入れて行きます。漱石はその近代化のプロセスが内発的ではないことに警笛を鳴らしているのです。私なりにこれらの漱石の発言を要約すると、社会の変化は内側から徐々に起きて行かなければならないものであり、外側から形式的に社会に変化をもたらしても、それは表面的なものに過ぎず、いずれ内側との矛盾によって社会が機能しなくなる、ということだと考えています。社会は大きなシステムであり、全体の整合性が取れる形でなければいつか故障が起きることになります。形式的に西洋文化を取り入れても、精神がそれらの文化と矛盾しないものでない限り、その文化が適切に定着することは出来ないということです。つまり、「和魂洋才」という西洋の取り入れ方は簡単ではなく、近代化が「皮相上滑り」のものであることを自覚しながら、和魂と矛盾しないように慎重に整合性をとらなくてはならないということです。

漱石は急速な西洋化に日本人の魂、即ち日本人の物事の考え方や捉え方の変化がついていっていないことに気づき、それを「皮相上滑りの開花」と表現しました。そしてその結果、いずれ社会の中で矛盾が生じるということを「滅びるね」という広田先生の台詞によって指摘していたのです。ではこの「皮相上滑りの開花」という考え方が、CSRとどのように関係してくるのでしょうか。

その答え(というか私の考察)を見ていく前に、次回の投稿で漱石が行っていたもう一つの指摘を見ていきたいと思います。

2013/03/04

政府の限界と企業への期待


CSRに関するJの質問から現在の社会が抱える傾向が2つ浮かび上がってきました。一つは前回の投稿で述べた「関心の二極化」、もう一つが今回の「政府の限界」です。
2012年6月20~22日にかけて、ブラジルのリオデジャネイロにて「国連持続可能な開発会議 RIO+20」が開催されました。政府、企業、教育機関、NGOなど、あらゆる組織の代表者が一堂に会し、これからの持続可能な開発のあり方について、様々なテーマから話し合われたこの会議は、最終的に成果文書として「我々の求める未来 (The Future We Want)」が採択されて終了しました。 (http://www.un.org/en/sustainablefuture/)

以前から指摘されていて、RIO+20で改めて明らかになったことが2つあったと思います。一つは、主権国家同士、特に先進国と途上国の政府間の溝が深く、政府間のグローバルな協調政策をとることが非常に難しくなっているということです。過去にも、京都議定書はアメリカが批准せず、またポスト京都議定書の枠組み作りのために2011年11月に開催されたCOP17も、あわや交渉決裂という状況になりました。そしてもう一つは民間レベルで各種のコミットメントや合意が行われ、途上国の開発や持続可能な発展において民間企業の存在感が益々高まっているということです。国連グローバルコンパクトが呼びかけを行い、多くの企業がRIO+20においてvoluntary commitmentとして、持続的な成長に向けた自主的な目標設定を行いました。


グローバル協調の難しさについて、三井物産戦略研究所会長である寺島実郎氏が無極化という表現で状況を説明していました。
世界は「冷戦後」といわれた時代の終焉という意味で構造転換期に直面している。東側に勝利した西側のチャンピオンとしての米国が世界を主導するという時代という認識に基づき、「米国の一極支配、ドルの一極支配、唯一の超大国としての米国」とさえいわれたが、世界は急速に「多極化」というよりも「無極化」(全員参加型秩序)へと移行しつつある。」(http://mitsui.mgssi.com/terashima/wc0812.php)
これは2008年に書かれたものですが、今は当時よりも更に無極化していると言えると思います。米国・欧州共に経済の低迷に喘ぎ、国内や域内の問題解決に追われて外交上の影響力を発揮しきれていないなか、中国を中心する新興国の国際交渉での発言力は増していると言えるでしょう。そのような状況の中で、交渉に参加する全ての国が同意できるような国際合意をまとめるのは簡単なことではありません。

また民間企業の存在感についても、ダボス会議を主催するWorld Economic Forumの創設者でありCEOであるKraus Schwab氏が、Foreign Affairsに寄稿した2008年の論文「Global Corporate Citizenship」において、グローバル社会の進行に伴う主権国家の役割の縮小に触れながら、企業の影響力について以下のように述べています。
As state power has shrunk, the sphere of influence of business has widened. Companies get involved in the health of workers, the education of employees and their children, and the pensions that sustain them in retirement. Corporations have an impact on everything from air quality to the availability of life-saving drugs. (中略) the influence of corporations on communities, on the lives of citizens, and on the environment has sharply increased.」(http://www.foreignaffairs.com/articles/63051/klaus-schwab/global-corporate-citizenship)

冷戦が終結し、資本主義が勝利した後、各国が自由主義的な経済政策を進めました。それに伴う国際的な経済の結びつきが主導したと言えるグローバリズムの台頭は、国境の持つ実質的な意味を低下させ、一つの国の政府がすべてをコントロールできる時代を終焉させたと言えるでしょう。その結果、各主権国家は自国の抱える様々な問題を解決する上で、常に他国と何らかの形で関わらざるを得ない状態となりました。そしてそのグローバル化をコントロールする秩序形成の為に機能してきたのがG7やG8などの先進国を中心とした国際協調の枠組みでしたが、欧米の後退、新興国の台頭などから無極化が進み、各国政府が効果的な協調政策をとることが難しくなってきています。そういう状況の中、企業の存在感が益々高まっているというのが、現状の整理ではないかと思います。

1992年、2002年、
2012年のFortune 500の各企業の売上を比較すると、企業が大きく力をつけていることが良く分かります。Fortune 500に名を連ねる企業の売上TOP5の合計金額は、441,615百万ドルだった1992年から、2012年には1,533,045百万ドルまで、約3.5倍になりました。
http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune500/2012/full_list/より作成
TOP100の合計金額で見ると拡大はさらに大きく、1992年の1,620十億ドルから2012年には7,496十億ドルとなり、10年で約4.6倍になっています。
http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune500/2012/full_list/より作成
また2012年のFortune 500で最も売上金額の大きかったExxon Mobileの売上は452,926百万ドルであり、これが国家だとすればGDPで世界第27位とされるパキスタンのGDP464,900百万ドル※に匹敵する状態にあります。※IMF(2011年)

政府がグローバル社会においてその機能を十分に発揮できない状況なりつつあり、企業がこれだけ力を持ちつつある中、企業への批判や期待が高まるのは自然な流れであり、今後は社会として企業の力を有効に活用し、また企業をうまくコントロールする仕組みが必要です。そしてどのような社会の仕組みを作るべきかということに関するヒントが、CSRに隠されているのではないかと私は考えています。

CSRを実践することで、企業は政府が役割を発揮しきれない領域で社会的厚生を高めることが出来ます。それを企業が自発的に実行してくれればそれ以上のことはありませんが、そうなるためには当然企業にインセンティブがある必要があります。政府、企業、市民社会の各プレイヤーはどうすればそのインセンティブを与えられるかを考えていくことが必要になります。企業が積極的にCSRに取り組むインセンティブを与える社会の仕組みや考え方について、すでに様々な試みが世界で行われていますので、今後それらの事例を見ながら考察を深めていきたいと思います。

2013/03/03

関心の二極化 〜CSRおたく〜

SustainabilityやCSRに対する企業の関心(=ビジネスに従事する人達の関心)が世界中で高まっていることに異論を挟む余地はないと思います。多くの企業がCSRレポートや統合レポートを作成し、ビジネスのプロセスやプロダクトを出来るだけsustainableにしようとする動きはあらゆる業界で見られます。にもかかわらず、Jのような疑問を持つ人は依然として非常に多いと思います。

「CSRおたく」
だけではダメ
この状況の背景には、sustainabilityやCSRに対する関心が二極化しつつある状況があると感じています。関心を持っている人はとことん関心を持っているのに、そうでない人は全く持っていない。新しい情報やアイディアも、関心を持っている人達の間ではどんどん共有されているのに、そうではない人達が全然巻き込まれていない。様々な専門性を持って働いているプロフェッショナル達が、みな自分の領域でそれぞれ社会的責任を果たしていく状況にしていかなければならないのですが、残念ながら「CSRのプロフェッショナル」以外のプロフェッショナルがCSRに全く関心をもっていないという実態があると思っています。「CSR geek (おたく)」と言っても良いかもしれません。

企業の社会的責任について何となく重要だろうと思っている人は多いと思うのですが、もう一歩踏み込んで調べてみようと行動する人は非常に限られています。やはり出回っている慈善活動、環境保護、法令遵守などのイメージをそのままCSRとして認識してしまい、企業の社会的責任の本来の重要性や可能性が多くの人に認識されないでいるのが現状でしょう。その結果、CSR担当者が孤立無援の状態で必死に旗を振っているというのが、まだ多くの企業におけるCSRの実態だろうと思います。

これまで関心の無かった人達、関心があっても一歩踏み込んでこなかった人達に認識を深めてもらうためには、粘り強く彼らに情報提供をし、何故それが重要なのかを伝えていく努力が必要になるだろうと思います。(言うは易し、行うは難し。)僕の周りのビジネスマンの多くも、ほとんどの場合CSRに対して理解が曖昧だったり懐疑的だったりしますが、CSRにまつわる概念やそれぞれの概念の関係性を丁寧に説明していくと、CSRの理論が体系的に確立されている状況に非常に驚き、かなり興味を持って聞いてくれます。

引き続きCSRのプロフェッショナルとその他の領域のプロフェッショナルが積極的に情報交換をしていく状況が少しでも増えて行くように、地道に努力していきたいと思う次第です。

CSRに関連する二つの傾向

「Craftsman、お前がsustainabilityとかsocialとかっていうものに問題意識を持って取り組もうとしているのを一年間見てきた。でも、俺とお前だけの間の正直な話、今後ビジネスがそういう取り組みを実行していくと、本気で思っているのか?」

ビジネススクールのクラスメイトでマルセイユ出身のユダヤ系フランス人であるJにそう言われたのは、お互いにロンドンで働き始めてからでした。彼はマルセイユ出身者特有の道楽者の雰囲気を惜しみなく出しながら、ユダヤ教徒としての食生活を忠実に守る真面目さを持ち合わせており、授業ではいつも核心をついた意見を述べ、鋭い質問をし、私もプレゼン後に彼からクリティカルな指摘を受けて回答に苦慮したことがありました。今はロンドンにある不動産系のprivate equityで働いています。

質問に対して、本気で思っている。でもそうなるように企業を促していく必要はあると思う。政府だけでは出来ないことがあるから、企業の活動を引き出していくことが必要なんだ。という主旨の回答をしました。

「そうかな?企業がそういう取り組みを増やしていかなくても、例えば今の金融業界は政府が積極的に動いてきたことで、数年前に比べてずっとリスクが低くなり、安定なシステムになっている。何故企業が自ら取り組んでいく必要があるんだ?」

彼はいつも極めて現実主義的であり、率直であり、これらの質問を受けた時にはJらしいな、と思いました。彼は決して私が無駄なことを考えていると言いたいのではなく、彼自身はビジネスは所詮ビジネスであり、企業が社会にプラスとなる取り組みを積極的に行うような状況を作るというのは非現実的だと考えていると同時に、本当にそんなことが出来るのか、出来るとしたらどのような方法がありうるのか、どのくらい可能性があるのかということを純粋に知りたかったのだと思います。

Jからの2つの質問は、今の社会の2つの傾向を炙り出してくれる質問だったと思っています。1つ目はsustainabilityやsocialといった言葉で形容される企業活動に対する「関心の二極化」、2つ目は政府が十分に役割を発揮できないことが増え始めているという「政府の限界」です。

この社会の2つの傾向について、次回以降の投稿で見解を述べたいと思います。

2013/02/28

CSRの定義

CSR、CSRと言いますが、CSRとは本当はどのような意味なのでしょうか?前回の投稿にも書いた通り、CSRには環境や慈善事業などの印象が強く、多くの人が企業が事業活動のついでに行っているもの、くらいの認識を持っているのではないかと思います。

私が欧州留学を目指した大きな理由の一つが、欧州連合(European Union)の進めるCSR政策にあります。私の知る限り、欧州連合はCSRの定義付けを行っている唯一の政府組織であり、欧州ではCSRを促進するガバナンス体制、つまり政府として企業のCSR活動を促すにはどのようにすれば良いかということについての議論が活発に行われています。そのような欧州連合の設定している最新のCSRの定義はこうなっています:

"The responsibility of enterprises for their impacts on society" (社会に与える自社の影響に対する企業の責任)

非常に幅広い定義ですが、これは非常に核心をついた定義であり、企業の責任が広いからこその定義だと私は思っています。この欧州連合の提示するCSRの定義を丁寧に見つめることでCSRの本質が見えてきます。

上述のEUの提示するCSRの定義に出てくる言葉の中でまずカギとなるのは「社会」という言葉です。CSRはそもそもCorporate Social Responsibilityという言葉の略であり、日本語では企業の社会的責任で、社会という言葉が重要なキーワードとなっています。では企業がCSRを考える上で認識すべき社会とは何なのでしょうか。その答えはステークホルダーです。ステークホルダーとは日本語でいうところの利害関係者であり、企業の事業運営からプラスやマイナスの影響を受ける人達を指しています。資金調達においては株主や銀行、資材調達においてはサプライヤーや物流事業者、製品製造においては工場の従業員や工場の周辺環境やコミュニティ、製品販売においては販売チャネルや顧客など、ステークホルダーは事業運営のあらゆる場面に存在しており、企業の事業活動の一つ一つが彼らに影響を与えています。CSRにおいて企業が考えるべき社会というのは、事業運営上に存在するステークホルダーの集合体と捉えることができます。


これらを踏まえると、CSRとは自社の事業運営の各プロセスや結果において、あらゆるステークホルダーに与えるマイナスの影響をゼロに近づけていく責任であり、その上でプラスの影響をより大きくしていく責任のことを指すと言えると思います。

ではステークホルダーに与えるマイナスの影響を出来る限り抑え、プラスの影響を大きくしていく上で、企業は何に取り組むべきなのでしょうか?また何故EU政府はわざわざCSRを定義付け、CSRを促進する方法について議論しているのでしょうか?これらの疑問については、また改めて考察したいと思います。

若い世代に考えてほしい、企業の社会的責任


ProfessionalとしてCSRを考える
「CSR」という言葉は、5年程前に比べて認知度は飛躍的に上昇しましたが、まだ多くの人にとって馴染みが薄く、「社会貢献活動」「環境保護活動」「寄付」などの印象が強いために、本来の意味や可能性が見えにくくなっている現状があると考えています。このブログを通じて、自分がCSRについて見たり聞いたり読んだりしたことをまとめ、特にこれからプロフェッショナルとして様々な領域で活動していく若い世代の人たちに、CSRの重要性と可能性を認識して貰えたらと考えています。


私はフランスのパリ郊外のビジネススクールで勉強した後、今年の1月よりロンドンにある社会的責任投資の国際的な調査会社で働いています。社会的責任投資についてはまた詳細を投稿したいと思いますが、社会的責任投資の調査会社での仕事を通じて、

  • 責任ある企業行動を促すインセンティブ
  • 責任ある企業行動の適切な評価方法
  • 責任ある企業行動のベストプラクティス

などを勉強したいと思っています。

欧州において、企業の力を持続可能な社会の発展に繋げるにはどうすれば良いか、より良い社会を実現する為の原動力としていくには何が必要なのかということを考え、行動している人たちのことを何人も見聞きしてきました。日本企業の多くも様々な要因からCSRの重要性や必要性を認識し、ここ10年ほどで大企業を中心にCSR関連部署の設置やCSRレポートの作成等の行動を一気に進めてきました。今後の課題は各企業の中でCSRの重要性がしっかりと浸透していくことであり、これからの経営や経済を担っていく若い世代がCSRに積極的に取り組むことだと思います。

このブログによって若い世代の人たちがCSRについて具体的な問題意識を持ち、それぞれのプロフェッショナルの領域で責任を持って行動し、周りの人達にその意識がどんどん伝播ていくことに繋がればと思っています。