2013/03/24

CSRを考える上で意識したい2つのこと

CSRに関する情報は非常に多く、様々な人が問題意識を持って議論を展開しています。CSRの周辺的概念とも言えるSustainabilityやShared Value、BOPビジネス、ソーシャルビジネスなどの概念を含めれば、実に多くの人が問題意識を持っていると実感します。自分自身もその議論の中の一つとして、持っている知識や経験をベースに考えていることを発信していきたいと思っていますが、そもそもCSRは良いのか、CSRは重要なのか、という根本的な問いを常に意識したいと思いますし、CSRについて考える上でも特に全体知と現実を見失わないようにすることを心掛けたいと思います。


全体知を持つ

全体知を持って思索を深めて行くことは非常に大事だと思っています。私が全体知を持つという表現で言いたいことは、CSRが社会の中でどのような役割を担えるかという視点を持つということです。CSRは手段であって目的ではないので、CSRを行うべきだと一生懸命語るのではなく、社会全体がどういう方向に向かうべきか、その中でCSRが必要か、必要だとすればどのような形でCSRが実行されるべきで、その為に企業や社会が何をしていくべきか、そういう全体から落としこんでいく意識、全体との整合性の中で考える意識を常に持って議論することが大切だろうと思っています。CSRについて考え始めると、ついつい何が何でもCSR、CSRの理想はこれ、という考え方になりがちですが、政府であれば社会全体の方向性の中で、企業であれば企業戦略の中で、CSRにどの様な役割を求めるかという視点を持って考えるということが重要だと考えています。


現実を見つめる

自分自身は「CSRおたく」にならないことを意識しています。これは役割分担の問題であり、他のあらゆる領域と同じように、専門性を深めて議論を整理していき、理想はどこにあるかということを提示するCSRのプロは必要です。それと共に、最終的にはCSRに関心のない人達がそれらを理解し、実行して行くように促していくことが大切であり、結局は理想を考えながら実行可能な形を模索し、実践的なCSRの在り方を考えて進めていくことが不可欠です。その上では現実の制約が何かということを常に冷静に見つめて対応することが求められます。例えば、EUの提示しているCSRの定義をベースとした私の現時点での認識では、企業にとってCSRに真剣に取り組むことは基本的にはコストです。多くの専門家や組織がCSRが企業の競争力に繋がることを示そうと試みており、中にはCSRへの取り組みと長期的な財務リターンとの相関関係を示した論文などもあります。しかし、もちろんそういう相関関係があれば良いなと私も思っていますが、高い説得力を持っているとはまだ思えないというのが私自身の現時点での感想です。関心のある私自身ですらそのように感じているのですから、CSRにそもそも関心を持っていない人がCSRが利益に結びつくと言われてもピンとこないのは当然だろうと思います。そういった現実(CSRが本当に企業の競争力向上につながるかは必ずしも明瞭ではない、多くの人はCSRに懐疑的orそもそも関心がない、そういう人達を説得しなければならない等)を認識せず、思考停止的にCSRの重要性や理想の姿を唱えることは、むしろCSRを後退させて行くことになると思うのです。現実を理解しながら粘り強く対応する意識を持って取り組んでいくことが求められていると思います。


今後も上記の二点を踏まえながら自分自身の考えを深めて行きたいと思いますが、やはりCSRに取り組むことで、企業は社会をより持続可能なものとしていく一定の役割を担うことが出来ると私は思っています。また企業にとっても、CSRへの取り組みが消費者の不買運動のリスク回避につながったり、ブランド力向上に寄与するなどの便益があるという見方もあります。これらの効果を定量化して正確に把握することは難しいですし、これらの便益が企業にとってもより実感し易い形でもたらされるようにすることが必要だと思いますが、例えばマーケティング戦略等のように、効果を定量的に把握しにくくとも何らかのKPIを設定するなどして戦略を実行し、企業価値を高めて行こうとする取り組みは企業において日常的に行われており、CSRもそれらと同様に取り組んでいくことが出来るのではないかと思っています。自社の競争力に繋がるかどうかが曖昧な中でも、CSRと事業戦略の中に統合する方法を模索し、CSRを将来に向けた投資として捉えて中長期的な競争力を高めることに繋げようとしてきたのがいくつかの先進的な企業の取り組みであり、そういった企業は自社戦略におけるCSRの位置づけを考えるという全体知を見失わず、またCSRを実行して行く上での制約が存在するという現実を直視してCSRに取り組んでいる好例でしょう。今後はそれらの取り組みが、中小企業を含むより多くの企業に広がっていくことが理想だと考える次第です。

また地域としてそれらの取り組みを促進し、その力を社会の発展に活用しようとしているのが欧州連合だろうと思います。EU域内の個別の国の政策や企業の対応状況は別に見ていく必要がありますが、現状の大きく動揺している経済状況にも関わらず、EU自体では域内のCSRを更に押し進めて行くための提案が欧州委員会に提出されるなど、議論がなされています。これらの取り組みや動きについては、また触れていきたいと思います。

仕事においてCSRのプロとして働いているわけではない私はCSRのアマチュアですが、アマチュアだからこそ、全体知を持ち、客観的に現実を見つめることが出来ると思っています。引き続きこれらを意識しながら、特に日本企業と日本が今後の社会の更なる発展を目指す上でCSRを活用していく方法がないか、地に足をつけて考察を深めていきたいと思います。

2013/03/16

夏目漱石とCSR(4)

夏目漱石とCSR(2)において、漱石の語った個人主義の在り方と、それが日本国憲法の幸福追求権の憲法精神に関係しているという点について考察しました。今回はそれがCSRとどう関係するかを考えたいと思います。

漱石の指摘する自己本位の考え方や、憲法が定める基本的人権や幸福追求権の在り方は、要は「好きなことをすれば良い、だけど他の人が不快に思うことはすべきではない」ということだと思います。この考え方がCSRを考えるにあたっても重要だと私は考えています。

企業活動の結果としての環境問題も、
将来の世代という第三者への不利益と
捉えることができます
経済学の基本的な概念の一つに「外部不経済」があります。企業を例にするならば、企業が事業を営む中で、その事業に関わっていない第三者が被る不利益が外部不経済です。日本が以前抱えた公害問題はまさしく外部不経済の問題と言えます。この外部不経済、つまり自社の事業活動に伴う第三者への不利益をゼロにしていくということこそ、CSRにおいて最も重要な考え方です。

先日の政府の限界と企業への期待とも関わりますが、企業が社会に与える影響力の大きさは拡大しています。漱石が私の個人主義で指摘しているのは個性・金力・権力の展開において他者をしっかり尊重することが重要であるということですが、企業はまさしくこの3つの力を様々な場面で展開して行くことができます。

「個性」は企業が持つ各企業毎に異なる事業プロセスや製造工程、またその結果としての商品やサービスと言えます。それらを実行し提供していくにあたって、他者(=ステークホルダー)に与える影響をしっかりと考える必要があるということです。

「金力」はそのまま、企業が持っているお金と言えます。企業が収益を悪いことに使おうと思えば、当然悪いことにも使えますし、その使い方次第で社会を良い方向にも悪い方向にも導くことができます。企業はお金の使い方に良く注意する必要があります。

「権力」は企業が実質的に持ちうる権力と、企業が政治権力へ与えうる影響力の2つがあるように思います。実質的に持ちうる権力としては、例えば大企業が中小サプライヤーに対して持つバーゲニングパワーが上げられます。また政治権力へ与えうる影響力としては豊富な資金力を活かしたロビー活動などが当たるだろうと思います。これらの権力も、企業が乱用すれば社会にネガティブな影響を与えることになります。

公共の福祉を反しない限り幸福追求権が保障されるという憲法の精神に則るならば、公共の福祉に反する=外部不経済を与える企業活動は認められないということになります。そういう状態にならないように、漱石の言葉を借りれば、企業は「倫理的修養」を積んで「人格」を磨いていくことが求められますし、社会としても外部不経済を認識し、それが是正されるような措置をとっていくこと、またそもそも外部不経済が発生しないような仕組みをあらゆる面で作っていくことが必要になるだろうと思います。

夏目漱石とCSR(3)

前回までで二回に分けて、夏目漱石が語った「皮相上滑りの開花」と「私の個人主義」について見てきました。今回はこの2つの講演の内容を踏まえて、私がCSRについて考えたことを書きたいと思います。まずは皮相上滑りの開花から。

夏目漱石とCSR(1)で述べた通り、漱石は「皮相上滑りの開花」という表現によって、社会の内側から変化したものではない、外側から形式的に変化をもたらそうとした明治の近代化の在り方に疑問を呈していますが、私はCSRにも同じことが言えるのではないかと思っています。つまりCSRに関して、日本社会の内側で議論を深めることなく、欧米が深化させていくCSRの概念をそのまま取り入れて行こうとしているのではないかという問題意識です。

ニッセイ基礎研究所が日本のCSRの歴史についてまとめています。これによると2000年代に入るまではある程度日本国内での議論を元に、日本企業としての社会的責任の在り方が模索されていたようです。しかし2000年代に入って欧米で社会的責任投資家が増え始め、日本企業に欧米の投資家からCSR活動に関する質問状等が届くようになると、日本企業は彼らの対応してきたCSR活動が欧米で考えられているCSR活動と異なるということに気付きます。そのあたりから、急速に欧米に求められるCSRを取り入れ始めているというのが、今の日本のCSRの状況ではないだろうかと思います。(ちなみに欧と米を一緒くたに考えるのも問題があります。欧と米ではCSRに対する考え方は異なり、それ故に実践されている内容や重視されていることも異なるのだろうと思います。)私はCSRが社会をより良くしていくためのツールになるのではないかと考えており、その観点から、今の日本のCSRに対する取り組みがズレている、と感じています。

「CSR幕の内弁当」
社会全体の様々な取り組みの
パッケージとしてのCSRが必要
特に欧州を見ていて感じるのは、CSRが企業だけの取り組みで成り立つものではないということです。欧州のCSRについてこちらで見聞きしたことについてはまた改めて詳しく書いていきたいのですが、欧州においてはNGOが積極的な活動を展開していること、EU政府とEU加盟国政府がCSRを促進するような政策を進めようとしていること、投資家の意識が変化しつつあること、企業がCSRを競争力とすべく様々な取り組みを行っていることなどが相互に影響し合い、社会全体の様々な取り組みのパッケージとしてCSRを進めているように思います。アメリカにおいても、NGOの活動の積極性については同様でしょうし、社会的責任投資の考え方も進んでいます。またアメリカの場合はステークホルダーとしての地域コミュニティも伝統的に力を持っています。社会の要請や社会全体の在り方についてのイメージがあったからこそ企業活動の在り方が問われ、CSRが検討されてきたというのがざっくりとした欧米におけるCSR発展の経緯だったろうと思います。何でもかんでも欧米が進んでいるわけではありませんが、CSRに関しては議論を深めて実行してきたという意味で、やはり欧米は進んでいるだろうと思います。

日本においても上述のニッセイ基礎研究所のレポートを読む限り、2000年代に入るまではそのような議論の展開が見られたと思われます。しかし昨今の取り組みは企業のみが対応し、しかも欧米の社会的責任投資家に求められる内容にのみ気を取られており、社会の側から企業に何かを要請し、それに企業が対応していくという構図は見られないと思います。ステークホルダー(即ち企業活動の影響を受ける人達)がそれぞれ企業に対してしっかりと主張すること、また企業側がそれらの主張を引き出して対応する努力をしていくことが最も重要であり、その前提として社会の側がどういう方向に向かって行きたいのか、また企業にどういう役割を担ってほしいかを認識していることが必要だろうと思うのです。

海外投資家や海外ステークホルダーの眼が厳しくなっていることで、ある程度外発的にCSRを進めて行かざるを得ない状況はあると思います。それはそれで対応して行くことが必要です。またそれらの要請は欧米社会と日本社会の違いを浮き彫りにし、どのような社会が作って行くべきかを考える重要なヒントになり得ます。その意味で、外発的なCSRの発展も有効と言えるでしょう。しかしそれも、外圧をそういう風に利用する、という意識を持って初めて意味を持つことになります。結局のところ、皮相上滑りなCSRの導入ではなく、根本のところで社会が企業に対して何を求めているのかを考え議論していく中で、日本のCSRを発展・成熟させて行くことが重要だと考えています。

では次に漱石の言う個人主義がCSRにどう関係するのかを考えていきたいと思います。

2013/03/10

夏目漱石とCSR(2)

前回の投稿で、現代のCSRの在り方にも関わる漱石の指摘の一つ目として、「皮相上滑りの開花」を見てきました。今回はもう一つの指摘について考察していきたいと思います。


2.あるべき個人主義の形

年号が明治から大正に変わり、「デモクラシー」という言葉が初めて人々に広まり始めた頃、漱石は「私の個人主義」(1914年)という講演を行いました。その講演の中で漱石は他人に流されること無く、ものごとを常に自分の尺度ではかる、「自己本位」の意識を持つことの重要性を指摘しています。

今にして考えると当たり前のことを言っているように聞こえますが、漱石がこの講演を行った当時(1914年)は、明治維新後に士農工商の身分制度が廃止され、限られた人々にのみですが、大日本帝国憲法(1889年)によって初めて選挙権が国民に与えられてしばらく経った頃です。そして大正になって普通選挙法(1925年)が制定され、日本は民主主義国家に向けた歩みをようやく前に進めていったのだろうと思います。(その後後退してしまいますが、、)漱石が「私の個人主義」で自己本位の大切さについて語ったのは日本に民主主義が根付いていなかった時期であり、恐らく人々がまだ民主主義を理解していなかった時代でしょう。そのような時代ですから、「自己本位」のような考え方はまだまだ人々の頭の中には無かったのではないかと私は考えています。

民主主義を説明した短編アニメ

漱石が指摘する「自己本位」は、自分は何を求めているのか、自分は何処に向かうべきなのかということを人が考える上で前提となる意識であり、「自己本位」の意識が国民に根付いていなければ民主主義は形式で終わってしまうだろうと思います。漱石は講演の中で民主主義については触れていません。しかし封建社会が終了し、人々が自分の人生を自分で決めて行くことが出来る社会が作られていく可能性を日本が持ち始めたこの時期に「自己本位」の重要性を語っている理由は、漱石が遅かれ早かれ民主主義社会が到来するだろうと予想していたか、少なくともそのような方向に進むべきであると考えていたからに他ならないだろうと思います。

そしてこの「自己本位」の重要性を指摘した上で、漱石はあるべき個人主義について以下の通り語っています。

『近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符牒に使うようですが、その中にはなはだ怪しいのが沢山あります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事をいいながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念を有つ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければ済まん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己の個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。』

そしてこうも語っています。

『今までの論旨をかい摘んでみると、第一に自己の個性の発展を士遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。(中略)これを外(ほか)の言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍いい換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起ってくるというのです。』

自由な社会においては一人一人が「自己本位」の意識を持って、自分が何をしたいかを自ら考えて行動することが出来るし、そうするべきである。しかし同時に、その上では他者もまた自由に行動する権利を有するということを認識して、その権利を妨害することのないように行動することが必要となると、漱石は言っています。漱石が指摘している個性・権力・金力の発展とは、現在の日本国憲法で言う所の幸福追求権の展開です。そして日本国憲法第13条には幸福追求権について以下の通り記載されています。

『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』

ここで指摘されている「公共の福祉に反しない限り」という部分について、公共の福祉とは何かということが憲法論者の間で常に議論されています。私はこの公共の福祉を他者の幸福追求権だと捉えています。他者の幸福追求権を侵さない範囲で自己の幸福追求権を展開することを求める憲法精神こそ、漱石の言う「人格の支配」であり「倫理的修養」を積んだ結果理解されるものだろうと私は考えています。漱石は社会制度としての民主主義が本当に機能していくために必要となる国民の意識としての「自己本位」と「あるべき個人主義の形」を指摘していたと言えます。

では、漱石が指摘していた「皮相上滑りの開花」と「あるべき個人主義の形」が、一体どうCSRと関係しているのでしょうか?次回はこの点について、結論を考えていきたいと思います。

夏目漱石とCSR(1)

夏目漱石とCSR。一見すると全く関係のないように見えるこの2つの単語ですが、私は夏目漱石の考えていたことが、実はCSRにとても重要な示唆を与えてくれると考えています。


漱石が生きていたのは1867~1916年であり、まさに明治維新(1868年)直後の、いわゆる日本の文明開化と共に人生を歩んできた人物と言えます。明治維新以降の日本は、自由民権運動などを中心に民主主義を求める声も高まり、西洋文化を積極的に取り入れて近代化の道を一気に突き進み始めました。漱石はこの激動の時代を極めて客観的に冷静に見つめて、様々な指摘を行っていた日本人の一人だったと私は考えています。その中で漱石は、現代のCSRの在り方にも関わってくる重要なことを2つ指摘していました。今回はまずその一つ目を見ていきたいと思います。


1.皮相上滑りの開花

日露戦争(1904年)の直後に書かれた「三四郎」(1908年)の中に、こんな一節があります。

『「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。』

これは主人公の三四郎と広田先生の会話です。日露戦争に勝利した直後の日本は、ずっと憧れていた西洋に戦争で勝利したという事実から、大変な高揚感に包まれていました。そのような周囲を尻目に、広田先生は「日本は滅びる」と三四郎に言っています。漱石は何故広田先生に「滅びるね」と言わせたのでしょうか。和歌山で行った「現代日本の開花」(1911年)という講演において、漱石はこのように発言しています。

『西洋の開花(すなわち一般の開花)は内発的であって、日本の現代の開花は外発的である(中略)現代日本の開花は皮相上滑りの開花である』

明治維新以降の日本は欧米の文明に圧倒され、急速に西洋化を進めて社会の様々な面で西洋の考え方を貪欲に取り入れて行きます。漱石はその近代化のプロセスが内発的ではないことに警笛を鳴らしているのです。私なりにこれらの漱石の発言を要約すると、社会の変化は内側から徐々に起きて行かなければならないものであり、外側から形式的に社会に変化をもたらしても、それは表面的なものに過ぎず、いずれ内側との矛盾によって社会が機能しなくなる、ということだと考えています。社会は大きなシステムであり、全体の整合性が取れる形でなければいつか故障が起きることになります。形式的に西洋文化を取り入れても、精神がそれらの文化と矛盾しないものでない限り、その文化が適切に定着することは出来ないということです。つまり、「和魂洋才」という西洋の取り入れ方は簡単ではなく、近代化が「皮相上滑り」のものであることを自覚しながら、和魂と矛盾しないように慎重に整合性をとらなくてはならないということです。

漱石は急速な西洋化に日本人の魂、即ち日本人の物事の考え方や捉え方の変化がついていっていないことに気づき、それを「皮相上滑りの開花」と表現しました。そしてその結果、いずれ社会の中で矛盾が生じるということを「滅びるね」という広田先生の台詞によって指摘していたのです。ではこの「皮相上滑りの開花」という考え方が、CSRとどのように関係してくるのでしょうか。

その答え(というか私の考察)を見ていく前に、次回の投稿で漱石が行っていたもう一つの指摘を見ていきたいと思います。

2013/03/04

政府の限界と企業への期待


CSRに関するJの質問から現在の社会が抱える傾向が2つ浮かび上がってきました。一つは前回の投稿で述べた「関心の二極化」、もう一つが今回の「政府の限界」です。
2012年6月20~22日にかけて、ブラジルのリオデジャネイロにて「国連持続可能な開発会議 RIO+20」が開催されました。政府、企業、教育機関、NGOなど、あらゆる組織の代表者が一堂に会し、これからの持続可能な開発のあり方について、様々なテーマから話し合われたこの会議は、最終的に成果文書として「我々の求める未来 (The Future We Want)」が採択されて終了しました。 (http://www.un.org/en/sustainablefuture/)

以前から指摘されていて、RIO+20で改めて明らかになったことが2つあったと思います。一つは、主権国家同士、特に先進国と途上国の政府間の溝が深く、政府間のグローバルな協調政策をとることが非常に難しくなっているということです。過去にも、京都議定書はアメリカが批准せず、またポスト京都議定書の枠組み作りのために2011年11月に開催されたCOP17も、あわや交渉決裂という状況になりました。そしてもう一つは民間レベルで各種のコミットメントや合意が行われ、途上国の開発や持続可能な発展において民間企業の存在感が益々高まっているということです。国連グローバルコンパクトが呼びかけを行い、多くの企業がRIO+20においてvoluntary commitmentとして、持続的な成長に向けた自主的な目標設定を行いました。


グローバル協調の難しさについて、三井物産戦略研究所会長である寺島実郎氏が無極化という表現で状況を説明していました。
世界は「冷戦後」といわれた時代の終焉という意味で構造転換期に直面している。東側に勝利した西側のチャンピオンとしての米国が世界を主導するという時代という認識に基づき、「米国の一極支配、ドルの一極支配、唯一の超大国としての米国」とさえいわれたが、世界は急速に「多極化」というよりも「無極化」(全員参加型秩序)へと移行しつつある。」(http://mitsui.mgssi.com/terashima/wc0812.php)
これは2008年に書かれたものですが、今は当時よりも更に無極化していると言えると思います。米国・欧州共に経済の低迷に喘ぎ、国内や域内の問題解決に追われて外交上の影響力を発揮しきれていないなか、中国を中心する新興国の国際交渉での発言力は増していると言えるでしょう。そのような状況の中で、交渉に参加する全ての国が同意できるような国際合意をまとめるのは簡単なことではありません。

また民間企業の存在感についても、ダボス会議を主催するWorld Economic Forumの創設者でありCEOであるKraus Schwab氏が、Foreign Affairsに寄稿した2008年の論文「Global Corporate Citizenship」において、グローバル社会の進行に伴う主権国家の役割の縮小に触れながら、企業の影響力について以下のように述べています。
As state power has shrunk, the sphere of influence of business has widened. Companies get involved in the health of workers, the education of employees and their children, and the pensions that sustain them in retirement. Corporations have an impact on everything from air quality to the availability of life-saving drugs. (中略) the influence of corporations on communities, on the lives of citizens, and on the environment has sharply increased.」(http://www.foreignaffairs.com/articles/63051/klaus-schwab/global-corporate-citizenship)

冷戦が終結し、資本主義が勝利した後、各国が自由主義的な経済政策を進めました。それに伴う国際的な経済の結びつきが主導したと言えるグローバリズムの台頭は、国境の持つ実質的な意味を低下させ、一つの国の政府がすべてをコントロールできる時代を終焉させたと言えるでしょう。その結果、各主権国家は自国の抱える様々な問題を解決する上で、常に他国と何らかの形で関わらざるを得ない状態となりました。そしてそのグローバル化をコントロールする秩序形成の為に機能してきたのがG7やG8などの先進国を中心とした国際協調の枠組みでしたが、欧米の後退、新興国の台頭などから無極化が進み、各国政府が効果的な協調政策をとることが難しくなってきています。そういう状況の中、企業の存在感が益々高まっているというのが、現状の整理ではないかと思います。

1992年、2002年、
2012年のFortune 500の各企業の売上を比較すると、企業が大きく力をつけていることが良く分かります。Fortune 500に名を連ねる企業の売上TOP5の合計金額は、441,615百万ドルだった1992年から、2012年には1,533,045百万ドルまで、約3.5倍になりました。
http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune500/2012/full_list/より作成
TOP100の合計金額で見ると拡大はさらに大きく、1992年の1,620十億ドルから2012年には7,496十億ドルとなり、10年で約4.6倍になっています。
http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune500/2012/full_list/より作成
また2012年のFortune 500で最も売上金額の大きかったExxon Mobileの売上は452,926百万ドルであり、これが国家だとすればGDPで世界第27位とされるパキスタンのGDP464,900百万ドル※に匹敵する状態にあります。※IMF(2011年)

政府がグローバル社会においてその機能を十分に発揮できない状況なりつつあり、企業がこれだけ力を持ちつつある中、企業への批判や期待が高まるのは自然な流れであり、今後は社会として企業の力を有効に活用し、また企業をうまくコントロールする仕組みが必要です。そしてどのような社会の仕組みを作るべきかということに関するヒントが、CSRに隠されているのではないかと私は考えています。

CSRを実践することで、企業は政府が役割を発揮しきれない領域で社会的厚生を高めることが出来ます。それを企業が自発的に実行してくれればそれ以上のことはありませんが、そうなるためには当然企業にインセンティブがある必要があります。政府、企業、市民社会の各プレイヤーはどうすればそのインセンティブを与えられるかを考えていくことが必要になります。企業が積極的にCSRに取り組むインセンティブを与える社会の仕組みや考え方について、すでに様々な試みが世界で行われていますので、今後それらの事例を見ながら考察を深めていきたいと思います。

2013/03/03

関心の二極化 〜CSRおたく〜

SustainabilityやCSRに対する企業の関心(=ビジネスに従事する人達の関心)が世界中で高まっていることに異論を挟む余地はないと思います。多くの企業がCSRレポートや統合レポートを作成し、ビジネスのプロセスやプロダクトを出来るだけsustainableにしようとする動きはあらゆる業界で見られます。にもかかわらず、Jのような疑問を持つ人は依然として非常に多いと思います。

「CSRおたく」
だけではダメ
この状況の背景には、sustainabilityやCSRに対する関心が二極化しつつある状況があると感じています。関心を持っている人はとことん関心を持っているのに、そうでない人は全く持っていない。新しい情報やアイディアも、関心を持っている人達の間ではどんどん共有されているのに、そうではない人達が全然巻き込まれていない。様々な専門性を持って働いているプロフェッショナル達が、みな自分の領域でそれぞれ社会的責任を果たしていく状況にしていかなければならないのですが、残念ながら「CSRのプロフェッショナル」以外のプロフェッショナルがCSRに全く関心をもっていないという実態があると思っています。「CSR geek (おたく)」と言っても良いかもしれません。

企業の社会的責任について何となく重要だろうと思っている人は多いと思うのですが、もう一歩踏み込んで調べてみようと行動する人は非常に限られています。やはり出回っている慈善活動、環境保護、法令遵守などのイメージをそのままCSRとして認識してしまい、企業の社会的責任の本来の重要性や可能性が多くの人に認識されないでいるのが現状でしょう。その結果、CSR担当者が孤立無援の状態で必死に旗を振っているというのが、まだ多くの企業におけるCSRの実態だろうと思います。

これまで関心の無かった人達、関心があっても一歩踏み込んでこなかった人達に認識を深めてもらうためには、粘り強く彼らに情報提供をし、何故それが重要なのかを伝えていく努力が必要になるだろうと思います。(言うは易し、行うは難し。)僕の周りのビジネスマンの多くも、ほとんどの場合CSRに対して理解が曖昧だったり懐疑的だったりしますが、CSRにまつわる概念やそれぞれの概念の関係性を丁寧に説明していくと、CSRの理論が体系的に確立されている状況に非常に驚き、かなり興味を持って聞いてくれます。

引き続きCSRのプロフェッショナルとその他の領域のプロフェッショナルが積極的に情報交換をしていく状況が少しでも増えて行くように、地道に努力していきたいと思う次第です。

CSRに関連する二つの傾向

「Craftsman、お前がsustainabilityとかsocialとかっていうものに問題意識を持って取り組もうとしているのを一年間見てきた。でも、俺とお前だけの間の正直な話、今後ビジネスがそういう取り組みを実行していくと、本気で思っているのか?」

ビジネススクールのクラスメイトでマルセイユ出身のユダヤ系フランス人であるJにそう言われたのは、お互いにロンドンで働き始めてからでした。彼はマルセイユ出身者特有の道楽者の雰囲気を惜しみなく出しながら、ユダヤ教徒としての食生活を忠実に守る真面目さを持ち合わせており、授業ではいつも核心をついた意見を述べ、鋭い質問をし、私もプレゼン後に彼からクリティカルな指摘を受けて回答に苦慮したことがありました。今はロンドンにある不動産系のprivate equityで働いています。

質問に対して、本気で思っている。でもそうなるように企業を促していく必要はあると思う。政府だけでは出来ないことがあるから、企業の活動を引き出していくことが必要なんだ。という主旨の回答をしました。

「そうかな?企業がそういう取り組みを増やしていかなくても、例えば今の金融業界は政府が積極的に動いてきたことで、数年前に比べてずっとリスクが低くなり、安定なシステムになっている。何故企業が自ら取り組んでいく必要があるんだ?」

彼はいつも極めて現実主義的であり、率直であり、これらの質問を受けた時にはJらしいな、と思いました。彼は決して私が無駄なことを考えていると言いたいのではなく、彼自身はビジネスは所詮ビジネスであり、企業が社会にプラスとなる取り組みを積極的に行うような状況を作るというのは非現実的だと考えていると同時に、本当にそんなことが出来るのか、出来るとしたらどのような方法がありうるのか、どのくらい可能性があるのかということを純粋に知りたかったのだと思います。

Jからの2つの質問は、今の社会の2つの傾向を炙り出してくれる質問だったと思っています。1つ目はsustainabilityやsocialといった言葉で形容される企業活動に対する「関心の二極化」、2つ目は政府が十分に役割を発揮できないことが増え始めているという「政府の限界」です。

この社会の2つの傾向について、次回以降の投稿で見解を述べたいと思います。