2.あるべき個人主義の形
年号が明治から大正に変わり、「デモクラシー」という言葉が初めて人々に広まり始めた頃、漱石は「私の個人主義」(1914年)という講演を行いました。その講演の中で漱石は他人に流されること無く、ものごとを常に自分の尺度ではかる、「自己本位」の意識を持つことの重要性を指摘しています。
今にして考えると当たり前のことを言っているように聞こえますが、漱石がこの講演を行った当時(1914年)は、明治維新後に士農工商の身分制度が廃止され、限られた人々にのみですが、大日本帝国憲法(1889年)によって初めて選挙権が国民に与えられてしばらく経った頃です。そして大正になって普通選挙法(1925年)が制定され、日本は民主主義国家に向けた歩みをようやく前に進めていったのだろうと思います。(その後後退してしまいますが、、)漱石が「私の個人主義」で自己本位の大切さについて語ったのは日本に民主主義が根付いていなかった時期であり、恐らく人々がまだ民主主義を理解していなかった時代でしょう。そのような時代ですから、「自己本位」のような考え方はまだまだ人々の頭の中には無かったのではないかと私は考えています。
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漱石が指摘する「自己本位」は、自分は何を求めているのか、自分は何処に向かうべきなのかということを人が考える上で前提となる意識であり、「自己本位」の意識が国民に根付いていなければ民主主義は形式で終わってしまうだろうと思います。漱石は講演の中で民主主義については触れていません。しかし封建社会が終了し、人々が自分の人生を自分で決めて行くことが出来る社会が作られていく可能性を日本が持ち始めたこの時期に「自己本位」の重要性を語っている理由は、漱石が遅かれ早かれ民主主義社会が到来するだろうと予想していたか、少なくともそのような方向に進むべきであると考えていたからに他ならないだろうと思います。
そしてこの「自己本位」の重要性を指摘した上で、漱石はあるべき個人主義について以下の通り語っています。
『近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符牒に使うようですが、その中にはなはだ怪しいのが沢山あります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事をいいながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念を有つ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければ済まん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己の個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。』
そしてこうも語っています。
『今までの論旨をかい摘んでみると、第一に自己の個性の発展を士遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。(中略)これを外(ほか)の言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍いい換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起ってくるというのです。』
自由な社会においては一人一人が「自己本位」の意識を持って、自分が何をしたいかを自ら考えて行動することが出来るし、そうするべきである。しかし同時に、その上では他者もまた自由に行動する権利を有するということを認識して、その権利を妨害することのないように行動することが必要となると、漱石は言っています。漱石が指摘している個性・権力・金力の発展とは、現在の日本国憲法で言う所の幸福追求権の展開です。そして日本国憲法第13条には幸福追求権について以下の通り記載されています。
『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』
ここで指摘されている「公共の福祉に反しない限り」という部分について、公共の福祉とは何かということが憲法論者の間で常に議論されています。私はこの公共の福祉を他者の幸福追求権だと捉えています。他者の幸福追求権を侵さない範囲で自己の幸福追求権を展開することを求める憲法精神こそ、漱石の言う「人格の支配」であり「倫理的修養」を積んだ結果理解されるものだろうと私は考えています。漱石は社会制度としての民主主義が本当に機能していくために必要となる国民の意識としての「自己本位」と「あるべき個人主義の形」を指摘していたと言えます。
では、漱石が指摘していた「皮相上滑りの開花」と「あるべき個人主義の形」が、一体どうCSRと関係しているのでしょうか?次回はこの点について、結論を考えていきたいと思います。
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