夏目漱石とCSR(1)で述べた通り、漱石は「皮相上滑りの開花」という表現によって、社会の内側から変化したものではない、外側から形式的に変化をもたらそうとした明治の近代化の在り方に疑問を呈していますが、私はCSRにも同じことが言えるのではないかと思っています。つまりCSRに関して、日本社会の内側で議論を深めることなく、欧米が深化させていくCSRの概念をそのまま取り入れて行こうとしているのではないかという問題意識です。
ニッセイ基礎研究所が日本のCSRの歴史についてまとめています。これによると2000年代に入るまではある程度日本国内での議論を元に、日本企業としての社会的責任の在り方が模索されていたようです。しかし2000年代に入って欧米で社会的責任投資家が増え始め、日本企業に欧米の投資家からCSR活動に関する質問状等が届くようになると、日本企業は彼らの対応してきたCSR活動が欧米で考えられているCSR活動と異なるということに気付きます。そのあたりから、急速に欧米に求められるCSRを取り入れ始めているというのが、今の日本のCSRの状況ではないだろうかと思います。(ちなみに欧と米を一緒くたに考えるのも問題があります。欧と米ではCSRに対する考え方は異なり、それ故に実践されている内容や重視されていることも異なるのだろうと思います。)私はCSRが社会をより良くしていくためのツールになるのではないかと考えており、その観点から、今の日本のCSRに対する取り組みがズレている、と感じています。
特に欧州を見ていて感じるのは、CSRが企業だけの取り組みで成り立つものではないということです。欧州のCSRについてこちらで見聞きしたことについてはまた改めて詳しく書いていきたいのですが、欧州においてはNGOが積極的な活動を展開していること、EU政府とEU加盟国政府がCSRを促進するような政策を進めようとしていること、投資家の意識が変化しつつあること、企業がCSRを競争力とすべく様々な取り組みを行っていることなどが相互に影響し合い、社会全体の様々な取り組みのパッケージとしてCSRを進めているように思います。アメリカにおいても、NGOの活動の積極性については同様でしょうし、社会的責任投資の考え方も進んでいます。またアメリカの場合はステークホルダーとしての地域コミュニティも伝統的に力を持っています。社会の要請や社会全体の在り方についてのイメージがあったからこそ企業活動の在り方が問われ、CSRが検討されてきたというのがざっくりとした欧米におけるCSR発展の経緯だったろうと思います。何でもかんでも欧米が進んでいるわけではありませんが、CSRに関しては議論を深めて実行してきたという意味で、やはり欧米は進んでいるだろうと思います。
日本においても上述のニッセイ基礎研究所のレポートを読む限り、2000年代に入るまではそのような議論の展開が見られたと思われます。しかし昨今の取り組みは企業のみが対応し、しかも欧米の社会的責任投資家に求められる内容にのみ気を取られており、社会の側から企業に何かを要請し、それに企業が対応していくという構図は見られないと思います。ステークホルダー(即ち企業活動の影響を受ける人達)がそれぞれ企業に対してしっかりと主張すること、また企業側がそれらの主張を引き出して対応する努力をしていくことが最も重要であり、その前提として社会の側がどういう方向に向かって行きたいのか、また企業にどういう役割を担ってほしいかを認識していることが必要だろうと思うのです。
海外投資家や海外ステークホルダーの眼が厳しくなっていることで、ある程度外発的にCSRを進めて行かざるを得ない状況はあると思います。それはそれで対応して行くことが必要です。またそれらの要請は欧米社会と日本社会の違いを浮き彫りにし、どのような社会が作って行くべきかを考える重要なヒントになり得ます。その意味で、外発的なCSRの発展も有効と言えるでしょう。しかしそれも、外圧をそういう風に利用する、という意識を持って初めて意味を持つことになります。結局のところ、皮相上滑りなCSRの導入ではなく、根本のところで社会が企業に対して何を求めているのかを考え議論していく中で、日本のCSRを発展・成熟させて行くことが重要だと考えています。
では次に漱石の言う個人主義がCSRにどう関係するのかを考えていきたいと思います。
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「CSR幕の内弁当」 社会全体の様々な取り組みの パッケージとしてのCSRが必要 |
日本においても上述のニッセイ基礎研究所のレポートを読む限り、2000年代に入るまではそのような議論の展開が見られたと思われます。しかし昨今の取り組みは企業のみが対応し、しかも欧米の社会的責任投資家に求められる内容にのみ気を取られており、社会の側から企業に何かを要請し、それに企業が対応していくという構図は見られないと思います。ステークホルダー(即ち企業活動の影響を受ける人達)がそれぞれ企業に対してしっかりと主張すること、また企業側がそれらの主張を引き出して対応する努力をしていくことが最も重要であり、その前提として社会の側がどういう方向に向かって行きたいのか、また企業にどういう役割を担ってほしいかを認識していることが必要だろうと思うのです。
海外投資家や海外ステークホルダーの眼が厳しくなっていることで、ある程度外発的にCSRを進めて行かざるを得ない状況はあると思います。それはそれで対応して行くことが必要です。またそれらの要請は欧米社会と日本社会の違いを浮き彫りにし、どのような社会が作って行くべきかを考える重要なヒントになり得ます。その意味で、外発的なCSRの発展も有効と言えるでしょう。しかしそれも、外圧をそういう風に利用する、という意識を持って初めて意味を持つことになります。結局のところ、皮相上滑りなCSRの導入ではなく、根本のところで社会が企業に対して何を求めているのかを考え議論していく中で、日本のCSRを発展・成熟させて行くことが重要だと考えています。
では次に漱石の言う個人主義がCSRにどう関係するのかを考えていきたいと思います。
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